安田純平さん(左端)の記者会見に集まった大勢の報道陣=東京都千代田区の日本記者クラブで2018年11月2日午前11時13分、長谷川直亮撮影

 当初、拘束された民家の部屋にはテレビがあった。武装勢力からは「紳士的な組織であったと最終的に伝えてもらいたい」と日記を書くためのノートも支給された。「殺すことは絶対にない」と言われていたが、2015年7月、日本政府に金銭を要求すると説明され「この時点で正式に人質と言われた」。

 日本に送るとして個人情報を書くよう求められた際、妻深結(みゅう)さんを「奥」と呼んでいた安田さんは、「Okuhouchi(奥、放置)」とつづり、以前から妻に言っていた「何かあれば放置しろ」とのメッセージを込めた。

 その後、次第に扱いは悪くなっていった。拘束場所は約10カ所変わった。他の外国人やシリア人らも拘束されており、棒で殴られるような音が聞こえたという。

 幅約1メートル、奥行き約2メートルの部屋に閉じ込められた。ドアに近づくと「盗み聞きしてスパイ行為をしている」と疑われるため、音を立てずに、体を折り曲げて過ごした。

 食事で鳥肉の骨だけを大量に持ってくるような嫌がらせもあった。電気や扇風機を止められるなど、安田さんは「ゲームのようなことをやっていた」と振り返った。

 20日間のハンガーストライキをしたが状況は変わらず、「帰すか、もしくは殺してくれ」と懇願したこともあったという。

 質疑応答で当時の心境を問われ、「身動きが全然できない。腹が立ってドアを蹴りまくったこともあった。絶望感があった」。

 注目されていることについて聞かれ、「私の行動がどうだったのか報道の注目が集まるのは当然だ」とした上で「(シリアで)何が起きているのか、この先どうすべきなのかというところまで関心を持ち続けていただきたい」と語った。

「イラク戦争、空論に踊らぬため現地へ」

 安田さんは信濃毎日新聞(長野県)の記者だった2002年3月と12月に休暇を取ってアフガニスタンとイラクを取材。イラク戦争が始まる直前の03年1月、退社してイラクに入った。

 04年4月、イラクで武装勢力に拘束され3日後に解放された。著書「囚(とら)われのイラク」(現代人文社)によると、高校生の時、湾岸戦争(1991年)を報じるテレビを見て「あの下に住んでいることはどういう気持ちなのだろう」と感じ、記者になった。イラクに向かった理由は「彼らの声を伝えたいと思っているだけだ。武装組織だけでなくイラクで出会った多くの人々の姿を知ってほしい」と記した。

 イラク軍訓練基地の建設現場に潜入した「ルポ 戦場出稼ぎ労働者」(集英社新書)に、紛争地で取材する意義を「現場を知る人間が増えることは、空論に踊らないためにも社会にとって有意義だ」とつづった。【福島祥】