村上春樹さん本人が出席した異例の記者会見は、およそ1時間におよびました。黒のTシャツにカーキ色のジャケット、チノパンツにスニーカーというカジュアルな服装で会見場に姿を現した村上さんは、冒頭、母校へ資料を寄贈することにした思いについて、自身の大学時代のエピソードを交えながら語りました。

主な内容は以下のとおりです。

大学時代の自身について

僕は一応、早稲田大学第一文学部の映画演劇科を出てるんですけど、あまり大学に行った記憶ってないんですよね。

当時はストライキとかロックアウトとか、ごたごたが続いていて授業があまりなくて、出席日数が足りなくてもレポートを出せば単位をくれたという時代だったんです。

おまけに僕は学生結婚をしちゃって、途中から仕事を始めちゃったんで、授業に出るような余裕は実際なかったんです。

でも一応、7年かけて卒業させてくれたんで、やっぱり寛容な学校だったんだなと思います。
テストもね、全然準備なんかせずに行って、問いなんか読まないんですよね。

答案の裏表にぎっしり自分の書きたいことを好きに書いたら『おもしろい』といって結構、点をくれましたね。

あとは卒論もね、僕は参考文献なんて1冊も買ったことがなくて、1週間で原稿用紙100枚書いたんです。でっち上げで適当なことを。
で、それを出したら、担当教授が印南高一さんって先生で、A+くれたんですよね。

『君はものを書く道に進んだほうがいい』ってその時にアドバイスされて、僕は『またこの先生ぼけたことを言ってるな』と思ってたけど、でも当たっていたみたいで、それはあとになって感心しています。

だから当時の早稲田大学は、そういうなんか、ちゃらんぽらんというか、わりに自由な気風があって、そういうのは僕の性格に合っていたかなと思います。

資料を寄贈した思いについて

資料を寄贈した思いについて
僕はもうかれこれ40年近く小説家としてものを書いてきたんですけど、生原稿とか、資料とか、書簡とか、関連記事とか、そういうものがいっぱいたまっていまして、うちにも事務所にも置ききれないくらいになってるんです。

で、僕は子どもがおりませんので、僕がいなくなったあとにそういうものがばらばらになってしまったり、散逸しちゃったりすると困るなと思っていたんですけど、今回、母校である早稲田大学がこういう場所をつくって、アーカイブの管理をしていただけるということで、それはとてもありがたいことだと思っています。

そういう施設が、日本人でも外国人でも、僕の作品を研究したいという人々の役に立つとすれば、それに勝る喜びはありません。

それから、僕の作品に限らず、お互いの国の文化交流の一つのきっかけになる場所になればと思っています。

僕の本は50か国語以上の言語に翻訳されていますし、また僕自身もずっと熱心に翻訳の仕事を続けてきました。

自分は翻訳によって助けられて、翻訳によって、つまり言語の交流というか等価交換によって育てられてきたという意識がとても強くあります。

日本文学の中だけにとどまっていたら、あるいは窒息状態みたいなことになっていたかもしれません。

そういう意味合いで、この場所が、文学や文化の風通しのいい国際交流・交換の場になってくれればいいなと願っています。

そして、そういう場所の中に交流を目的としたセミナーみたいなものが開ける広い部屋をぜひ作りたいと考えています。

また、ゆくゆくはスカラーシップみたいなものを立ち上げることができたら、言うことがないと思います。

欲を言えば、僕の集めたレコードとか書籍をストックした書斎みたいな機能を持つスペースも設けることができればと思っています。
そこで例えばレコードコンサートを開くとか、そういうことができればいいですね。

僕もそういうことにはできるだけ積極的に関わっていきたいと思います。

さっきも言ったように、ぼくはあまり熱心に授業には出なかったんですけど、この会場の横にある演劇博物館にはよく通いました。
そこで、古いシナリオをずっと読んでいたんです。

映画を見るお金のないときなんかは、その古いシナリオを読みながら、頭の中で自分の映画を勝手にこしらえていたんですよね。

そういう体験や訓練も、小説家になってから少しは役に立ったんじゃないかなと思っています。

そういうちょっとオルタナティブ的な、寄り道的な場所が、大学のキャンパスにはやはり必要だと思うんです。

質疑応答 主なやり取り

質疑応答 主なやり取り
会見では続いて、村上さんへの質疑応答が行われました。
主なやり取りは以下のとおりです。

ー37年ぶりに記者会見に臨もうと思った理由は?

37年前は、大森一樹君が僕の『風の歌を聴け』の映画を作って、それの記者会見に出てくれと言われたので出ました。

でもあれは僕は関係なくて、ほとんど大森君と主演の女優の方がやっていて、僕は隣でニコニコしていただけだから、会見とも言えないですよね。
あの時は僕、ショートパンツ履いてサングラスして行ったら、ひんしゅく買って。

今回会見に臨んだのは、やっぱり、僕にとってもすごく大事なことだし、早稲田大学に対しても責任を持たないといけないことなので、自分できちんとしゃべろうと思って出ました。

ー資料の寄贈を思い立った理由は?

4~5年前から考えていたんですが、いろんな行き先を検討しましたけど、やっぱり早稲田大学は僕の母校だし、そういう意味ではいちばんの落ち着きどころかなと思いました。

外国も考えてはみたんですが、やっぱり日本でやるのがいちばん妥当だろうと。

ー寄贈する村上コレクション、すべてで何点くらいになる?

レコードは半世紀以上コレクションして1万何千枚はありますね。

今もまだ聞いていますけど、ゆくゆくは、僕が一生懸命集めたコレクションなので、まとめておきたいなという気持ちがあります。

本はちょっと数えていないですけど、たぶん僕の仕事に関係した本に限られることになると思います。

例えば翻訳したものとか、僕自身の本とか、僕自身にとって大事な本とか。

ただ、あの、僕はまだ生きて仕事をしているので、全部急に持ってくるというわけにはいかないので、徐々に少しずつ持って行こうと考えています。

ーその中でも、特に思い入れのある資料は?

思い入れのある資料…。
この間、久しぶりに、僕が最初に※群像新人文学賞を取ったときの『群像』の雑誌を見たら、やっぱり懐かしかったですね。
受賞の言葉とかもね、見ていると、若かったなと思って。
もしそういうのを見たい人がいれば、見られるようにしたいと思います。
※1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞。作家デビューを果たす。

ー原稿はどの作品のものを寄贈する?初期の『風の歌を聴け』なども含まれるか?

『風の歌を聴け』は、僕、コピー取らずに講談社に送っちゃったんで、ないと思うんですよね。
まさか授賞すると思わなかったんで、そのまま送っちゃったんです。
貴重なものと言えば『ノルウェイの森』の時、僕はヨーロッパにいて、いつもは原稿用紙なんですけど大学ノートに書いていて、それがけっこうたまっていて、あれは第1稿でかなり貴重な資料だと思います。
今もあるのかな。あれば寄贈します。

初期に書いた原稿とか翻訳された本とか、とりあえず僕が使わないというものから徐々に大学に移していこうと思います。

ー村上さんは1968年に早稲田大学に入学。当時は政治の季節だった。きょうの早稲田大学は学園祭でにぎやか。違う風景を見て何か感じた?

うーん、よくわかんないですね。
なんか町の風景もずいぶん変わっちゃったしね。
僕が歩いていた町とはずいぶん違うなという感じはありますね。

でも、渋谷のハロウィーンとやっていることはあまり変わらないなという気はするんだけど。車ひっくり返したりね。

ー今後学内にできる研究施設では、村上さんに会える機会もありそうか。

もしもそういう機会があれば、せっかく僕のための場所を作っていただいたんだから、協力はできるだけしたいと思います。
結構年も取ってきたんで、どこまでできるか分からないけど。

ー創作時、5~6回と推こうするそうだが、推こうの過程が分かる資料も残している?

いくつかの作品については稿を重ねるごとにバージョンを残している場合もあります。

ーそういうものも公開する?

あまり見せたくないけどね、ははは(笑)。
でも、研究する人にはおもしろいかもしれないけどね。

ー寄贈する書簡とは、どういう人との書簡を想定している?

僕もどういう書簡があったかあまり覚えていないんですけど、愛憎関係とかそういうのはないと思います(笑)。
ただ、ほかの作家の人と儀礼的にやり取りをしたりとかそういうものはあります。

そういうものは、相手に迷惑がかからなければ寄贈してもいいと思います。

ーこれから先、文学を志す人、あるいは研究する人への期待は?
今の時代において、文学の持つ力についてどう思う?

僕は、小説のいちばん主要な力は物語だというふうにいつも思っています。

物語が心にすっと入っていくような力を持っていれば、それは言語を超えて交換可能なものだと思っています。

今はインターネットの時代でどんどんいろいろなものの価値が交換されている時代だから、物語というものを一つの武器にして、小説にはブレイクスルーしていく力が内包されていると思うんです。

だから若い若くないに関係なく、そういうことを追求してくれる人が出てくればうれしいなと思います。

やっぱり一つの文化の中だけで収まっていては、そういう力はなかなか出てこないと思うんです。

ー施設には書斎のようなスペースも作りたいとのこと。自宅の書斎を再現したようなもの?

そこまでは考えていないですが、僕の書斎にはレコードがあって、オーディオ装置があって、本がいくらかあってというような僕のスペースがあるわけです。

そういう雰囲気を移せればというふうに思っています。

ただ書斎そのものを再現するということではないです。

ー村上さんが学生時代に演劇博物館に通い詰めていたように、この施設から新たな作家や批評家が誕生してほしい?

そういうことが起こるといいなと思っています。

というのは、教室と自宅を行ったり来たりとか、アルバイト先とか、それら以外にも何か特別な場所みたいなものがあるといいなと思うんです。

僕自身の経験ですと、授業は行かないけど、そういう場所で何かを読んでいるとか、時間を過ごしているとか。

そういう気持ちのいい場所ができるといいなというふうに思っています。

ー日本文学だけでは窒息状態になっていたかもしれないとのこと。自身にとって外国文学とはどのような存在だった?

僕は10代の頃から外国文学を読んでいるんですけど、窓を開けて違う空気を取り込む、違う風景を目にする、そういう気持ちがすごい強かったですね。

それはうちの両親が日本文学を専門にしていたということもあって、両親と違うことをしたかったという気持ちも強かったです。

僕は神戸に住んでいて、わりに洋書みたいなものがいっぱいあったんで、それを読んで育ったということもあるし、なんかそっちのほうに行っちゃいましたね。

でも、小説家になってからは日本の小説や文学をけっこう読むようになりましたね、逆に。

翻訳をするということ、一つの言語から別の言語に等価交換するという作業は、ものすごく好きでした。
今でも好きです。
だから今でも翻訳は仕事だと思わないんです。

趣味でやっているとしか思えないですね。

でもそういうのは、僕が小説を書く上でもすごく役に立ったと思います。

言語は等価交換できるものだという認識があるだけで、自分の書く文章も変わってくるんですよね。

それは、翻訳しやすい文章を書くとかそういうことじゃなくて、これは等価交換されて違う言語の人にも読めるんだという、そういう認識があるだけでずいぶん気持ちが違ってくるんです。

やっぱりそういうものがないと、日本の文芸業界の中だけで周りを見てやっていたら、どうしても息が詰まってくると思うんですよね。

ー寄贈資料の中にレコードがあるのが興味深い。

僕ね、レコードはよく集めるんですけど、本ってあまり集めないんですよね。

読んだらすぐ売っちゃったりしてあまり執念がないんですけど、レコードだけはしっかりコレクションしています。

ー村上さんの執筆にとって、音楽は切っても切れないということ?

影響があるのかは知らないけど、僕は朝4時か4時半くらいに起きて仕事するんですけど、前の晩からレコードを出しておくんですね。

枕元に、遠足行くときに何かを置いておくみたいに、レコードをこれとこれとこれって選んで置いておくんです。
で、それを聞きながら仕事をしています。
それは楽しみです。

ー最後に。37年ぶりの記者会見、感想は?

もっと厳しい質問が出るのかと思っていましたが、みんな親切で、ありがとうございます。
だいたい1人くらいなんかネガティブなことを質問する人がいるんですけどね。