◇歴史授業でムハンマドの風刺漫画

 中学校で歴史を教える教師サミュエル・パティ氏が預言者ムハンマドを風刺した漫画を授業で見せ、これを理由に殺害された事件の波紋が広がっている。マクロン大統領が葬儀の場で「風刺画はやめない」と発言したことへの反発がイスラム世界で湧き上がっているのだ。

 「マクロンが預言者を侮辱」などのアラビア語ハシュタグが、瞬く間にトレンドのトップになったサウジアラビアをはじめ、多くのイスラム諸国では、仏ブランドの食料品や化粧品がスーパーの棚から撤去された。この不買運動は本稿執筆時点でさらなる広がりを見せているようだ。(東海大学平和戦略国際研究所・客員教授 新谷恵司)

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 怒りは、イスラム世界全体に広がっている。10月25日カーン・パキスタン首相は、「過激主義者(が問題であるのにこれ)を非難せず、イスラムを攻撃することでフォビア(イスラム恐怖症)をあおった」とマクロン大統領の対応を糾弾した。その前には、トルコのエルドアン大統領が「マクロンは正気ではない。メンタルチェックが必要」と正面から批判している。フランスはこれを「公然の侮辱」と受け止め、駐トルコ大使を召還するなど騒ぎは拡大の一途だ。

 頭部を切断して人を殺害し、その写真をSNSに投稿するという残忍な手口は、一般のイスラム教徒の目からしても到底許されるものではない。マクロン大統領はそのことを指弾すれば何の問題もなかった。それどころか、フランス全人口の約9%(推計6百万人)を占めるまでになったイスラム・コミュニティーの共感を得たであろう。しかし今般の一連の対応を見ると、本来の敵である過激主義との闘いをそっちのけにして、イスラムという宗教そのものを敵に回そうとしているように映る。

 フランスは2015年11月にパリ同時多発テロ(130人死亡、300人以上負傷)を経験したが、今回の事件と深い関係のあるシャルリー・エブド本社襲撃が起きたのはその年の1月だった。預言者ムハンマドは全てのイスラム教徒にとって彼らの信仰の象徴であり、これを風刺画に描いて嘲笑するという行為への憎悪は、ことのほか大きいのである。新たなテロが起こるのではないか?正直なところ筆者は非常に心配だ。にもかかわらず、マクロン大統領はなぜ宗教間の憎悪と対立をあおるような演説をしたのであろうか。

 その理由として、フランスに特有な世俗主義(政教分離政策)という根源的な要因と、マクロン政権の責めに帰するべき直接的動機という二つの要因に分けて考えた。これらについて知ることは、今後、フランスだけでなく国際社会が全体として暴力的過激主義との闘いを進めていく上で極めて重要である。

◇積極的な政教分離政策

 フランスには、ライシテ(世俗性)と呼ばれる「積極的」政教分離政策がある。三色旗が「自由、平等、博愛」を象徴しているという話はよく知られているが、その三つを保障する4番目の大原則があり、それが政教分離だということはあまり知られていない。カトリック教会の支配から脱することで近代国家を築いてきた歴史を有するこの国では、政教分離とは、社会の非宗教性(世俗性)を守るために国家が積極的に介入することを意味しているようだ。

 それは日本の政教分離とどこが違うのだろうか。ヒジャーブ(イスラム教徒の女性が頭髪を覆う布)を例にとれば、それを着用して公立学校に登校することは法律で禁止されている。異質な格好であるヘジャーブは宗教性を表象・主張しているとみなされ、その着用で公共の場の世俗性が損なわれないように国が介入しているのだ(十字架のペンダント等も同様に禁止)。これに対し、私達日本人は「服装の自由もないのか?信教の自由の侵害では?」と考える。そんな日本の政教分離原則とは、国家が手出ししないことを求める「消極的」ないしは「不作為を求める」政教分離だ。

 地方自治体が玉串料を公費で支出したり(津地鎮祭訴訟)、公職にある者がその資格で特定の神社を参拝してはならない、また、宗教法人は課税されない。このような原則は、国は放っておくと特定の宗教を奨励・利用する行為に及ぶだろうという疑いに対する保障であり、国が手出しをしないことを求めている。

 一方フランス人は、放っておくと宗教が人の心を縛ってしまうため、自由も平等も得られなくなる。だから、法律で規制すべきだと考えるようだ。もっとも、異教の預言者を裸体で描いて中傷した漫画が、果たして風刺として保護される価値のあるものなのか?という議論は当然ある。しかし、マクロン大統領の「表現の自由は絶対に守る」という主張の背景には、「社会の世俗性を維持するためには、宗教は攻撃されてよい。風刺画とは、元来攻撃的なものであり、これを発表する自由は守る。それが表現の自由だ」との確信があるという。それを否定していては、宗教が襲い掛かってくると考えるのだ。

 しかし、このようなライシテの解釈は絶対的なものではない。2016年に、祭りでにぎわう遊歩道にトラックを突入させ、84人を殺害したテロ事件が発生した南仏ニースや多くのフランスの自治体では、海岸で女性が「ブルキニ」と呼ばれる全身を覆う水着を着用することを条例で禁止していたが、同年、国務院(行政最高裁判所)は、自治体にこれを禁止する権限はないと判示した。当局がそれを禁止する理由は、ヒジャーブ禁止と同じだが、「肌を露出せずに海を楽しみたいというまっとうな納税者の自由まで奪うのか」「禁止措置はイスラム教徒を狙い撃ちしており、イスラム恐怖症を正当化するもの」といった批判に耐えきれなかったのであろう。

 フランスのみならず、欧州全土でイスラム恐怖症がまん延し、極右の政党や団体は移民排斥を訴えている。その主張はひとことで言って人種差別、分離主義だ。イスラム教徒を低く見てこれを排斥することで欧州の「文化」を守ろうというのである。

 「リビエラの海岸でブルキニは『汚染』に映るのだろう。結局彼らはビキニやトップレスの見える光景が好きなのだ」「初めて欧州の首都を訪れた時、街中にヌード写真が広告されていることに衝撃を受けた。あれを禁止せず、ヒジャーブを禁止することを優先する社会が優れた『文明』なのか?」といったネット上のコメントはイスラム社会側の受け止め方を代弁している。両者の対立は平行線で交わることはない。そのような情勢の中で、対立をあおり、相互に憎悪する感情を高めることは、その反対、つまり民衆をなだめて相互理解を深める努力を尽くすことに比べてはるかに易しく、リーダーシップも取りやすい

◇強硬姿勢を取らざるを得ない事情

 マクロン大統領がイスラム対策に関して強硬な主張をせざるを得ない真の理由はここにある。高所得者と大企業を優遇する政策に「ノー」が突きつけられた「黄色いベスト運動」による混乱は記憶に新しいところだが、22年の大統領選挙で2期目を狙うには政権の支持率は地に落ちている。「マクロンはイスラムを恐れているのではない。ルペンが恐ろしいのだ」という汎(はん)アラブ情報ネットの見出しが代弁する通り、前回の決選投票を争ったマリーヌ・ルペン率いる右翼政党・国民連合は、国民の多数派に存在する反イスラム感情をわしづかみにしている。これに対し、マクロン政権は対抗する政策を実行に移さねば政権の命運は尽きると言っても過言ではない状況に置かれている。

 実はマクロン大統領の今回の反イスラム発言には伏線があった。10月2日にも彼は「イスラムは危機にひんしている」と述べ、世界中にニュースの種を提供していた。演説の趣旨は、前任者のイスラム過激主義対策をも踏襲した新たな対イスラム総合対策の法案を年末から審議するということであったが、「極右であれ、右翼であれ、イスラム排斥を願う有権者が急増している中で『恐怖』をあおり、『イスラム恐怖症』に投資すること」(ラアイ・アルヨウム紙)が、支持率に敏感な政治家として何よりも求められていたとみられる。

 この話は、欧米対イスラムという文脈に留まらない。現代の国際社会はヘイトと分離主義、民族対立感情、そして人種差別への反感に満ち満ちている。各国の指導者には、感情のままに行動する大衆を制止することが最優先に求められているというのに、逆にこれをあおることで票を獲得しようとする不心得者ばかりだ。マクロン大統領の一連の発言は、火に油を注いでいるようなものである。また、詳細は次の機会に譲るとして、同政権が国内のモスクを統制し「穏健なイスラム」「フランスのイスラム」を生み出そうとしていることは新たな対立軸を国内に持ち込む危険がある。

 この点、ひとりの極右過激主義者によって51人の信徒がクライストチャーチのモスク内で射殺されるという事件に対処したニュージーランドのアーダーン首相の英知が光る。弱冠38歳(当時)の女性宰相は、「テロリストに名前はいらない」とした有名な演説をする前に、同国議会に史上初めてイスラムの導師を招き入れ、コーランの朗誦で開会したのである。宗教を問わず「新旧の移民同士」が調和を求め、異文化を受け入れる姿勢を率先して示したことが、報復の連鎖を防いだ。

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 新谷 恵司(しんたに・けいじ) 1959年生まれ。早稲田大学法学部卒。外務省勤務を経てアラビア語同時通訳者。中東情勢研究家。2016年より現職。