編集委員 大林 尚

筆者が医療制度改革を取材テーマの一つに選んで20年ほどがたつ。この間「世界に冠たる日本の医療」なる麗句をたびたび聞かされた。日本医師会の歴代会長、与野党議員、厚生労働官僚――。同省審議会の常連委員にも何かというと「世界に冠たる」を持ち出す大学教授がいた。

国民皆保険制のもと、病院や診療所で健康保険証を出せば医療サービスを等しく低コストで受けられる仕組みを自賛したものだ。制度改革は不要と暗示しているようでもある。だが今や、この麗句は音を立てて崩れた。新型コロナウイルス禍への対応をめぐる医療界と政府・自治体の失策や失政は、誰の目にも明らかだ。

感染者の治療・ケアやワクチンの予防接種にあたる医療人、疫学調査に汗を流す保健所職員などの多くは献身的にやってきた。だがこの夏、都市圏を中心に新規陽性者が累増する感染第5波が献身をふいにする「事件」を招いた。

8月17日、千葉県柏市内で生まれたばかりの赤ん坊が死亡した。妊娠中だった30代の女性はコロナに感染し、自宅で療養していた。柏市当局と柏市保健所の説明はあらまし次のようなものだ。

入院要請に応じなかった医療機関は少なくとも9つあった(事情説明する千葉県柏市の保健所担当者ら、19日)=共同

同日朝、女性からおなかに張りを感じたという連絡を受け、市の担当者らが入院先を探したが、応じる病院・診療所はなかった。出血がみられるなど状態が深刻になっても入院先はみつからずじまい。女性のかかりつけの医師、県の職員やコーディネーターなども総出で協力したが駄目だった。

県当局によると、受け入れを断った医療機関は9つ以上あった。壁になったのはコロナ感染の一点。万策尽きた女性は自宅で出産し、119番通報した。救急隊員が駆けつけたときには、赤ん坊は息をしていなかった。妊娠8カ月の早産だった。

コロナ禍が長引き、感染者が持病の悪化や重篤な肺炎などで死亡したというニュースが日常になった。だが母になるはずの女性に起こった一部始終は、とりわけ無力感にさいなまれる。高度医療を専門とする大学病院などの産科は何をしていたのだろう。「世界に冠たる」の崩落を決定づける悲劇である。

空床がない、病室や通路を区分けするゾーニングができていない――など、それぞれに事情を抱えていたのかもしれない。しかし医療従事者の大半は真っ先にワクチン接種を終えている。困難を乗り越えて新しい命の誕生を支える医療人が不在だったことに慄然とする。コロナ即応のための公的資金はふんだんに用意されていた。千葉県知事をはじめ、地域の医療体制に責任を果たすべき自治体当局は、当事者意識を強く自覚すべきだろう。

安倍・菅の両政権は2020年度に3次にわたる補正予算案を組み、国会はそのすべてを成立させた。21年度も補正予算の編成が取り沙汰されている。来るべき総選挙をにらんでのことだ。累次の補正によって積み上がったコロナ対策費の多くが医療費に回った。

感染者の入院に備えるために、厚労省は重点医療機関に指定した病院に日額で最高40万円台の「空床確保料」を払っている。関係者のあいだでは、あえて感染者を受け入れずに空床にしたままこの補助金をもらい続けている病院があるのでは、という臆測が出ていた。

長らく見て見ぬふりをしていた同省だが、ようやく8月になって正当な理由なく都道府県の受け入れ要請に応じない病院は補助金の対象にしない場合があると周知した。東京都が実態調査に乗り出したら入院促進の兆しが出たと本紙が報じていた。だがこの程度では生ぬるかろう。正当な理由なしに感染者を受け入れず、確保料をもらい続けている病院に補助金返還を求めるのは当然だ。

さらに菅政権はコロナ特例として、私たちが毎月払う健康保険料を主財源とする診療報酬を21年4~9月期の期間限定で引き上げた。それは①医科・歯科の初診料と再診料②入院③調剤④訪問看護――と、医療界をあまねくカバーする大盤振る舞いだ。コロナ治療と関係がない診療科を掲げる医療機関も、感染予防の徹底などの条件を満たせば初診・再診料を上げられる。コロナを隠れみのにした医療費の見えざる水膨れである。

道理に合わない診療報酬の引き上げは9月いっぱいで打ち切るのが筋だが、医師会は継続を画策している。コロナ対応についていわく「医療現場全体で昼夜の別なく、それぞれの医療機関の役割に応じて懸命に分担・対応することになった。また患者の受診控えなどによって医療機関の経営はぎりぎりの状況にある」などと主張し、10月以降も引き上げを維持すべきだと与党の族議員や厚労官僚への働きかけを強めている。

コロナは今もって未知の感染症だ。予防、治療、後遺症などの研究支援に一定の国費を充てることも必要だ。妊娠中の感染者が安全に子どもを産む環境を整えるのにも使えばよいが、柏市の事例にみられるように医療人と首長らの意識改革を伴わなければ空費になる。

特効薬の研究開発や実用化に向けた臨床試験は、試行錯誤を経つつも前進している。成果がはっきりすれば感染症としてのコロナの分類を季節性インフルエンザと同じ水準に緩和するのも可能だ。それは、コロナというだけで国費や診療報酬を大盤振る舞いするやり方へのけじめを意味する。名実ともに世界に冠たる医療の再構築は、そこから始まる。