ほぼ唯一の野党となって1年半、孤立に耐えてドラギ政権批判を貫き、物価高騰への国民の不満の受け皿となって支持を拡大してきた。政界入りの原動力は、家庭を顧みない父親への反発心だった。
幼い頃に父親が家族を捨てて出奔し、ローマの下町で母子家庭に育った。貧困による偏った食生活で9歳で体重が65キロになり、いじめも受けた。15歳で始めた政治活動が心のよりどころだったと自伝で語っている。
独裁者ムソリーニの支持者が第2次大戦直後に結成した「イタリア社会運動(MSI)」の青年部に加入。MSIの後継政党「国民同盟」の学生部で全国指導者も務め、国民同盟と合併した「フォルツァ・イタリア」創設者のベルルスコーニ首相(当時)に見込まれ、31歳で史上最年少の閣僚に抜てきされた。
「イタリアの右派は何十年も前にファシズムを歴史の教科書へと追いやった」と強調。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)との連携も掲げ、「極右」の排他的な政治への不安払拭(ふっしょく)に努める。
女性の社会進出が進み、人工妊娠中絶の権利保護を求める機運が高まる中、カトリックに基づく伝統的な家族の価値観重視を唱えて中絶に反対。少子化につながるとして、国会議員や企業経営陣の女性比率の拡大にも否定的で、「女性の権利がないがしろにされる」と懸念する声もある。
事実婚によるジャーナリストのパートナーとの間に娘が1人。