By 唐鎌大輔 みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト

コラム:需給環境からみる上期の円相場、「仮面の黒字国」にも改善の兆し=唐鎌大輔氏

[東京 19日] – ドル/円相場は8月初頭に141円台まで急落したものの、その後はじりじりと値を戻している。日銀利上げ観測が遠のき、円金利の先高観が解消されつつある中、「日米金利差の急激な縮小は無い」との思惑が円売りを後押している側面は否めない。しかし米7月雇用統計直後に見たように、悪い経済指標が確認されればドル建て資産が悲観一色の中で売り込まれる展開は今後も警戒されるところであり、目先に限って言えば、このままドル/円相場の押し上げが持続する可能性は高くないと筆者は考えている。

この点は最近の需給環境を見ても感じるところだ。今月8日には財務省から2024年上半期の国際収支統計が発表されたので、需給環境の現状整理をしておきたい。

<経常収支黒字は過去最大が視野>

ヘッドラインとなる経常収支はプラス12兆6817億円の黒字だった。貿易サービス収支がマイナス4兆3629億円の赤字となる一方、第一次所得収支黒字がプラス19兆1969億円と半期としては過去最大の黒字を記録したことで経常収支黒字の大きさが確保されている。現行統計では最大の経常収支黒字である07年のプラス24兆9490億円を更新するペースだが、当時はこの半分(プラス14兆1873億円)が貿易収支黒字であり、だからこそ実体経済を巻き込んだ円安バブルという言葉が多用されていた。

片や、全ての黒字を第一次所得収支で稼ぐ現在とはまったく事情が異なるため、仮に24年の経常収支黒字が過去最大になったとしても、それは将来的な円高地合いを約束するものでは決してない。もっとも、後述するように、キャッシュフロー(CF)ベースで見た経常収支も明らかに改善傾向をたどっており、需給面で見た円相場の脆弱(ぜいじゃく)性は過去2年間と比較すればかなり修復されていると言って良いだろう。

2月の本コラム「日本はデジタル小作人か、仮面の経常黒字国と円安の関係」でも論じたが、日本は統計上でこそ莫大な経常黒字を積み上げているものの、それはあくまで「統計上の数字」であり、「CF上の数字」はアウトフローが続いている疑いがある。筆者はこの状況を「仮面の黒字国」と形容したが、少なくとも24年上期の状況を整理する限り、22年から23年は莫大な赤字と疑われた仮面の下の惨状は改善に向かっているように見受けられる。以下でCFベース経常収支の現状を整理する。

<半期のCFベース経常収支はほぼ均衡>

第一次所得収支黒字を構成する再投資収益や証券投資収益のうち、恐らくは円転されないであろうフローを調整した上で筆者が試算したCFベース経常収支は24年上半期でプラス2754億円と若干の黒字だった。ほぼ均衡と言って良いだろう。仮面の下の素顔とも言うべき円相場の需給環境は22年から23年こそ赤字まみれだったが、確実に改善に向かっていることは認められる。以下、詳しく見てみよう。

上述した通り、第一次所得収支黒字が統計上でプラス19兆1969億円と巨額に膨らんでいるため、CFベースでも応分の円買いが発生しており、筆者試算では約プラス6.8兆円の円買いに繋がっていると推計される。片や、貿易サービス収支の赤字が約マイナス4.4兆円であるため、全体として若干円買い優勢の仕上がりに繋がっている。貿易サービス収支に関して言えば、貿易収支赤字が前年同期の約マイナス5.2兆円から約マイナス2.6兆円へ半減していることが大きいものの、懸案のサービス収支赤字も約マイナス2.1兆円から約マイナス1.8兆円へ若干改善している。

デジタル赤字を基軸とするその他サービス収支は約マイナス3.3兆円から約マイナス4.1兆円へ拡大しているものの、旅行収支黒字が約プラス1.6兆円から約プラス2.6兆円へ黒字幅が1兆円も拡大しており(もっともこれは23年3月まで水際対策が敷かれていた反動だ)、結果としてサービス収支赤字の拡大が押さえられている。 24年上半期をまとめると、鉱物性燃料輸入の減少とインバウンド需要の拡大で、需給環境の改善が図られた半期だったと言える。

<ドル/円相場の上値は重く>

今後のドル/円相場に対する含意としては、こうした需給環境の改善に加えて米連邦準備理事会(FRB)の利下げに応じた日米金利差の縮小も勘案する必要があるため、このまま150円台に復帰するという展開は難しいというのが筆者の基本認識だ。強いてその展開があるとすれば、既にIMM通貨先物取引の円ポジションが中立化していることも踏まえると、投機的な動き主導ということになるだろう。

実際、24年上半期は需給環境が改善に向かい、日米金利差も縮小していたにもかかわらず、IMM通貨先物取引における円ショートのポジションは今次局面で最大まで膨れ上がった。それが頂点に達したのが7月初旬であり、その後どうなったのかは皆が知るところである。こうした円ショートの生成と崩壊は今後も繰り返されそうだが、折に触れて「日銀の利上げもある」と分かり、FRBの利下げも恐らく始まる以上、今年上半期ほどの一方的なポジションの傾斜は無いと筆者は考えている。

<「新時代の赤字」は増加中>

とはいえ、これまで筆者が「新時代の赤字」と形容するその他サービス収支の赤字が減少傾向にあるわけではなく、むしろ増加傾向にあることも付記しておきたい。これについては過去の本コラム「インバウンド黒字で補えないデジタル赤字、円安促す構造変化」や「『新時代の赤字』で長引く円安、重み増す需給の構造変化」で詳説しているので、詳しく知りたい読者はお読み頂ければ幸いである。

日本のサービス収支をモノ・ヒト・デジタル・カネ・その他で切り分けた場合、このままいけばデジタル関連収支の赤字は史上初のマイナス6兆円台に突入する。インバウンド需要を背景にヒト関連収支もプラス5兆円に突入するため、全体としてデジタル関連収支赤字の増分はかき消されそうだが、日本の置かれた「デジタル小作人」とも揶揄(やゆ)される立場は何ら変わっていないどころか、悪化している。これに加え、海外への再保険料支払いからなるカネ関連収支も初のマイナス2兆円を優に突破することが確実で、サービス収支全体から得られる「肉体労働vs頭脳労働」という図式は大きく変わりそうにない。

現状、唯一の大きな黒字を稼ぎ出しているヒト関連収支を支えているのは宿泊・飲食サービス業であり、この業種こそが最も人手不足を極めていることでも知られている(日銀短観6月調査における雇用・人員判断DIはマイナス65で、これは全業種中で最も大きなマイナス幅)。これではいくらインバウンド需要があっても供給が足りなくなり、黒字がピークアウトするというのがヒト関連収支の未来として懸念される。

一方、デジタル関連収支における支払は相手企業(象徴的にはGAFAMなど)に価格決定権がおおむね委ねられている。赤字がピークアウトするのは簡単ではないだろう。こうして見ると、円相場の需給環境という論点にとどまらず、今のサービス収支が示唆する日本経済の実情が持続可能なのかどうかは政策担当者に考えて貰いたいテーマだろう(この点は神田真人前財務官が主催した国際収支に関する懇談会でも正面から議論されているので、報告書を参照にされたい)。

しつこいようだが、報道のヘッドラインで話題になる経常収支の黒字額だけから得られる情報はあくまで限定的なものになっており、とりわけ第一次所得収支黒字が大きくなることで余計にその傾向が強まっている。今の日本では国際収支を深掘りすることでしか見えてこない構造問題が確実にある。それに目を向けた上で、その一環として「弱い円」の正体にも目を向けてみると良いだろう。

編集:宗えりか

(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)

*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月) 、「ECB 欧州中央銀行:組織、戦略から銀行監督まで」(東洋経済新報社、2017年11月)。新聞・TVなどメディア出演多数。