森友学園問題がきっかけとなり、決済文書の書き換えが大問題になっている。野党や評論家、メディアの大半はこの問題を「改ざん」と表現し、公的な文書を事後的に修正する意図的な犯罪行為が行われたことを匂わせている。新聞の論調も大方は民主主義の根幹を揺るがす大問題との設定で、だから真相解明が必要との論調だ。書き換えた文書が公表された翌日の朝日新聞にはジャーナリストの江川紹子氏のコラムが掲載されている。その中で同氏は「私たちが戦後、信頼してきた民主主義の土台が崩れた気がしました」と述べている。崩れた土台について同氏は「政府が主権者である国民に嘘をついてきた」と述べている。

このコラムによると日本の戦後は、「役所や裁判所が公文書をどんどん焼き捨てることから始まりました。役人や裁判官が身を守るためです」とある。そして「あれから70年あまり。公文書保存のための法律も制定され、その大切さが広く理解されていると思ったのですが、まさか役人が文書に手を加えてしまったとは」と続く。我々の財産である国有地の売却にかかる決済文書を書き換えたのだから、誠に時宜を得たタイムリーなコメントである。日曜日の朝日新聞のコラム「日曜に思う」にはジョージ・オーエルの「1984年」が取り上げられている。主人公は「真理省記録局」という部署に勤めているのだが、「政府の都合と主張に合わせて過去の新聞記事を改変するのが仕事である」この小説は独裁者が勝手に事実を捩じ曲げる恐怖を描いたものだが、一強の安倍政権下で起こった今回の事件を批判するという点ではこちらもベストな喩え話の挿入と言っていいだろう。

そんな中で気になっているのは世の中全体が一つの方向に流れることだ。個人的にへそ曲がりな気質ということもあるが、過去に何回も世論が一致して間違いを犯したことがある。イラク攻撃の時ブッシュ政権は90%を超える支持率を得た。習近平国家主席の憲法改正は99.99%が賛成した。金正恩は一人で全部を決めている。こちらの喩えは貧素だが、昨日の朝日新聞には民主主義の根幹に位置付けられる文書管理の日米比較が掲載されている。日本は文書管理の実務を担う内閣府の公文書管理課職員が15年度でたったの19人。米政府の国立公文書館・記録管理庁(NARA)には3000人の職員がいる。民主主義の基盤と論者が主張する公文書管理に日本はいったいどのくらいのエネルギーを注いできたのか。ほとんどの有権者は公文書を見たことも触ったこともないと思う。日本の民主主義を公文書に結びつける思考のプロセスに飛躍があるような気がする。