自民党の杉田水脈議員の投稿で物議を醸していた「新潮45」が昨日突然休刊すると発表した。新潮側の発表によると「限りなく廃刊に近い休刊」だそうだ。この休刊にはいろいろな意味がある。個人的には大きく言って2つの意味があると思う。一つはLGBTに対する考え方、2つ目が雑誌メディアの休刊をどう考えるかということだ。2つ目の休刊については「あってはならない」というのが率直な印象だ。編集方針が右とか左というのは、雑誌メディアに限らずどのメディアにとっても基本的に問題になるような要件ではない。そのメディアの論点が一貫していて、公序良俗に反しない限り右だから左だからという批判は説得力を持たない。だから掲載したコンテンツの内容によって休刊を決めるというのは、本来あってはならないことだ。

 

雑誌が休刊ないし廃刊できる唯一の正当性は、その雑誌の発行元が株式会社である場合、採算が取れなくなった場合に限られる。今回新潮社は赤字を理由に休刊を決めたわけではない。社内外から湧き起こった批判に耐えられず休刊(実質的な廃刊)を決めている。これは責任の放棄であり、言論を持って生業とするメディアにとってあってはならないことだ。それ以上に大きな問題はLGBTに対する議論のあり方だ。この問題の詳細をフォローしているわけではないので、軽々に論ずるべきではないと思う。ただ、LGBTと生産性を結び付ける発想は論外と言わざるをえない。子供を生むことと生産性を結び付けるのはあまりにも単純で、発想に広がりがない。社会がLGBTを認知することによって該当する人たちが気持ちよく仕事に集中できるようになり、生産性が上がるという効果の方がはるかに大きいと思う。

 

議論の本質は社会的少数派の立場を世の中がどうやって受け入れていくかということではないか。人間は思想、信条に趣味、嗜好、宗教観や性的志向など個々人によってすべて異なっている。こうした違いを集約しながら一定のルールのもとで社会は成り立っている。そのルールの変更が必要になっている、これがいま我々の直面している課題である。例えば「婚姻」。憲法24条には「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、(中略)相互の協力により、維持されなければならない」とある。両性とは言わずもがなだが、男性同士、女性同士の婚姻は憲法によって認められていないのが現状だ。LGBTを認めるという発想自体にバイアスがかかっているような気がするが、全ての人が対等で、かつ、平等に生きていくためにはまず憲法の改正が必要になるということだ。生産性よりも改憲論議が必要なのである。