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共同記者発表に臨む河野太郎外相(右)とロシアのラブロフ外相=31日午後1時5分、東京都港区、代表撮影

 日ロ平和条約交渉安倍政権が6月の大筋合意を断念した。事実上の2島返還に大きくかじを切って決着をはかったが、交渉は開始直後から暗礁に乗り上げた。安倍晋三首相はなぜ交渉に乗り出したのか。なぜ、計算通りに進まなかったのか。(石橋亮介、竹下由佳)

 「あらゆる前提条件なしに、年末までに平和条約を結ぼう。困難な問題はその後、友人として解決しようじゃないか」

 昨年9月12日、ロシア・ウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムの全体会合。プーチン大統領が突然言い出した提案が、それまでの日ロ交渉を一変させた。

 日本政府は北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するというのが基本方針だった。領土問題の解決を後回しにして平和条約を結ぶというプーチン氏の提案は受け入れられない。安倍晋三首相と何度も会談を重ねてきたプーチン氏。首相の考え方も理解しているはずだった。なぜこんな提案をしたのか。

 「プーチン提案」の引き金を引いたのは、同じ会合に出席していた首相だった。プーチン提案に先立ち、首相は演説。原稿は首相官邸幹部が書いたという。平和条約の締結についてプーチン氏にこう呼びかけていた。

 「今やらないで、いつやるのか」

 さらに、聴衆にもたたみかけた。

 「平和条約締結に向かう私たちの歩みをどうかご支援を頂きたい。力強い拍手を聴衆の皆さんに求めたい」

 会合はロシア全土に中継されていた。外務省幹部は「プーチン氏は何も言わずにはいられなかった」とみる。

 突然の「プーチン提案」について外務省は、平和条約の締結を優先するという従来のロシアの立場を繰り返しただけと、冷ややかだった。

 しかし、首相は違った。目をつけたのはプーチン氏が提案の中で「1956年の日ソ共同宣言は調印しただけでなく、日ソ双方が批准した」と語っていた点だ。宣言には平和条約の締結後、歯舞(はぼまい)群島と色丹(しこたん)島を日本に引き渡すと明記されている。

 首相はプーチン氏との2人だけの会談で「両国が認めているのは56年宣言だけじゃないか。歯舞・色丹以外の名前はどこに書いているんだ」と繰り返し言われていた。首相は2島返還ならば合意できる可能性があると考えた。

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 2日後の9月14日、自民党総裁選に関する日本記者クラブの討論会。「プーチン氏と22回も会って、共通認識すらなかったのか」と問われた首相は、色をなして反論した。日ソ共同宣言に向けて松本俊一全権委員とマリク全権委員らが行った秘密交渉の記録をすべて読んだと明かし、こう強調した。「プーチン大統領の言葉からサインを受け取らなければならない」。事実上2島に絞って返還交渉を進める「予告」だった。

 実際、首相は以前から2島返還を現実的な解決策の一つと捉えていた。官房副長官だった2002年の講演で「2島返還決着論は問題だが、2島先行返還論は必ずしも問題ない」と発言。側近の一人も「4島不法占拠論、4島返還論を唱えてきたのは守旧派だ」と言う。

 首相は海にも注目した。歯舞・色丹の2島は陸地の面積こそ北方四島全体のわずか7%だが、日本の領土になれば排他的経済水域は大幅に広がる。さらに、戦前には歯舞・色丹に6千人以上が住んでいたことにも着目。2島返還となれば意味は大きいと考えた。

「最後のチャンス」首相の賭け

 ただ、首相のこうした考えについて、外務省内に否定的な意見は少なくない。プーチン提案の直後から「2島でいいと言ってしまうとゼロになる可能性がある」(幹部)という声が上がっていた。

 昨年11月14日、シンガポールで行われた日ロ首脳会談。首相はプーチン氏にこう語りかけた。「共同宣言に書かれている内容を完遂する形で平和条約を結ぼう」。プーチン氏は受け入れ、日ソ共同宣言を基礎として交渉を加速させることで合意した。首相周辺は言う。「首相は一気に賭けに出た」

 首相は周辺にこう語った。「プーチンでなければロシアの世論を押し返せない。これは最後のチャンスなんだ」

 これに対し、プーチン氏はなぜ交渉の加速化で合意したのか。モスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授は「56年宣言を持ち出されたら、プーチン大統領は断れない。ロシアは虚を突かれた」とみる。

 プーチン氏もシンガポールでの首脳会談の翌日、ロシアメディアとの会見で、「会談では安倍首相が『日本は56年宣言を基礎とした交渉に立ち戻る用意がある』と言った」と明かし、「日本側に頼まれたのだ」と合意が日本の要請だったと強調した。

 その上でこう語った。「(56年宣言には)2島をどのような条件で引き渡し、主権が誰の元に残るのかが示されていない」。成果に期待を膨らませる日本に冷や水を浴びせ、交渉が難航するのを予感させた。

揺さぶるロシア

 昨年12月1日、ブエノスアイレスで会談した首相とプーチン氏は、河野太郎外相とラブロフ外相を「交渉責任者」、森健良外務審議官とロシアのモルグロフ外務次官を「交渉担当者」とすることで一致。交渉の進展具合によっては首相側近の今井尚哉秘書官とプーチン氏側近のウシャコフ補佐官を参加させることも決めた。「基本路線さえ固まれば、あとは互いの右腕を入れよう」と話した。

 今年1月から平和条約締結交渉が始まった。

 ところが、いきなり行き詰まった。1月14日、モスクワで行われた第1回の条約締結交渉終了後の記者会見。ラブロフ外相は「日本側が第2次世界大戦の結果を認めるのが第一歩だ」と訴えた。

 北方領土についてロシアでは「ナチス・ドイツに協力した日本を破り、多くの犠牲を払って勝ち取った」との共通認識がある。第2次大戦の正当な結果として北方領土がロシア領になったという「原則論」をまず主張し、交渉で優位に立とうとした。

 日本政府関係者によると、ラブロフ氏は交渉後、河野氏に対し、「我々は同じ船に乗っている。浮くも沈むも一緒だ」と語りかけてきたというが、日本政府とは方向性があまりにも違いすぎた。

 ロシアは、日本と同盟関係にある米国を警戒し、基地問題などで「日本がどの程度主権を持っているのか」(プーチン氏)と疑っていた。北方領土を日本に返還した場合、米軍基地が置かれる可能性や、日本が米国から導入する陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」にも、懸念を訴えた。

交渉そのものがロシアの利益に?

 冷戦終結後、一時改善に向かった米ロ関係は、北大西洋条約機構NATO)の東方拡大やウクライナでの親米政権の誕生などで再び対立に向かった。14年のロシアによるウクライナ・クリミア半島の併合や、16年の米大統領選への介入疑惑で関係は一層悪化。さらに、トランプ米政権が中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を表明したことも、問題を複雑にした。米国が日本国内の拠点に中距離ミサイルを配備する可能性をロシアは警戒する。

 ロシア国内の世論の反対も影響した。昨年3月の大統領選直後に80%を超えていたプーチン氏の支持率は、年金の支給開始年齢の引き上げ方針を公表した昨夏から60%台に落ち込んだまま。世論の反対を押し切って領土問題で譲歩する体力はなかった。

 それでもロシアが日本との交渉を続けるのは、米国と日本の関係を揺さぶり、日本の経済協力を引き出す狙いがあった。

 ロシアは2014年のクリミア半島併合をめぐって主要8カ国(G8)から排除され、欧米を中心とした経済制裁に苦しむ。制裁はロシア経済を支える天然ガスや石油の開発に欠かせない技術供与の禁止やエネルギー企業への融資の制限、プーチン氏に近い有力者の在外資産の凍結など多岐にわたり、ロシア経済の低迷の一因とされる。

 日本はロシアとの関係悪化を懸念し、制裁は一部の個人の資産凍結などにとどめ、欧米と一線を引いている。独立系シンクタンク、政治工学センターのアレクセイ・マカルキン副所長は、「日米間で意見の相違を作り出せれば、それだけでロシアにとっては成果と言える。ロシアにとって、交渉を続けること自体に意味がある」と話す。

 6月の大筋合意への期待感は急速にしぼんでいった。ロシアの大手紙コメルサントは3月15日、プーチン氏がモスクワでの非公開の会合で日ロ交渉について「テンポが失われた」と語ったと報道。日本政府高官によると、首相も3月、周辺に「6月に何かまとまるというような期待値を上げないように」と語っていた。