井上哲也 野村総合研究所 金融イノベーション研究部主席研究員

[東京 23日] – 筆者が2018年初めに中央銀行デジタル通貨(CBDC)に関する調査を本格的に始めた際、主要国ではスウェーデンが先行して導入するというのが海外の専門家の共通認識であったように思う。実際、同国の銀行券使用が顕著に低下する中で、中央銀行であるリクスバンクは公式のプロジェクト・レポートを含む多くの資料を公表し、具体的なイメージを示していた。 

しかし、その後に法律問題などを巡って調整が必要になったとみられ、導入に向けた動きはややペースダウンしている。2019年末になってようやく、IT企業と共同でウォレットやカードの開発を開始することが公表された。 

対照的に、足元で導入に向けた動きが加速しているのは中国である。野村総研とともに「日中金融円卓会合」を共同で開催している中国金融40人論壇に中国人民銀行の当局者(日銀の決済システム局次長に相当)が2019年8月に寄稿した論文(「中央銀行デジタル通貨の設計と構造」)をみると、2014年には周小川総裁(当時)の指示で本格的な研究に着手しており、既に2016年には外部の専門家も含めて関連論文も多数発表されるなど、基本的な考え方が整理されたようである。  

その後の動きは必ずしも判然としなかったが、中国人民銀行は同年に設立した研究所で検討を進め、上記の論文によれば、足元では「996(朝9時出社、夜9時退社、週6日勤務)」の体制で開発を急いでいるとのことだ。 

しかも、同論文にはタイトルの通りにCBDCの具体的なイメージが示されており、現地のメディアには地域や使途を限定した形での試験的導入が近いとの報道が目立つようになっている。  

皮肉なことに、導入に向けた議論を後押しした要因の1つは、フェイスブック(FB.O)を中心とする「リブラ」構想であったようだ。つまり、リブラのように問題の多いデジタル通貨に侵食されることを防ぐために自らの導入を急ぐべきという考え方であり、筆者が10月末に参加した上海の国際会議でも、中国側の講師からはそうした指摘が目立った。 

<人民元の国際化に関する誤解> 

中国によるCBDCの発行に対しては、日本を含む主要国の間で警戒感が少なくない。その焦点は、中国がこれを活用して人民元の国際化を加速する、というものである。実際、先に挙げた論文も、その将来的な可能性に言及しているだけに、こうした警戒感にも相応の根拠はある。 

筆者も、人民銀行がデジタル通貨を発行すれば、長い目で見て人民元の国際化に資することはありうると思う一方、今後数年といった時間的視野の中では、杞憂(きゆう)に終わる可能性が高いと考える。その最大の理由は、人民元が国際通貨に求められる条件を満たすには、なお時間を要するからである。 

一般に、ある通貨が国際通貨として、自国だけでなく世界で幅広く使用されるには、海外の家計や企業、金融機関からみても、その通貨を用いた支払いや決済の利便性が高いだけでなく、その通貨を用いて安全で効率的に資産を運用しうることが必要である。 

後者の条件を満たすには、大規模で流動性の高い金融資本市場の存在が必要であり、実際、米ドルやユーロはそうした市場を背後に抱えている。もちろん、この点は「ニワトリと卵」の関係ともいえるので、通貨の国際化と並行して実現すると主張できるかもしれない。 

その上で、より重要なことは、クロスボーダーでの金融取引が自由で円滑に行いうることであり、様々な規制を残す中国の場合は、この点が大きな支障になる。 

かといって、依然として国内の金融システムに不安要因を抱える中国が、クロスボーダーの金融取引に関する自由化を急ぐことは、大規模な資本流出を招くリスクが残ることを考えると、メリットとコストが見合わないという意味で適切ではないし、実際に推進される可能性も低いであろう。 

こうした点を踏まえると、人民銀行のデジタル通貨がそれ自体優れたものであるかどうかに関わらず、仮に現時点で導入したからといっても、人民元の国際化に直結するわけではないことがわかる。 

<デジタル通貨のインフラで中国が主導権> 

中国のCBDCに伴う国際的な影響として、日本を含む主要国が当面意識する必要があるのは、むしろ次の2つの点であろう。 

第1に、CBDCについてIT技術面から世界標準となる可能性である。「一帯一路」の上にある国々も、国内の支払いや決済において自国通貨を放棄して人民元に乗り換えること──「ドル化」ならぬ「人民元化」──には、多くの場合に社会的にも経済的にも抵抗があるはずである。 

一方で、自国通貨のデジタル化を図ろうと判断した場合に、その手段として中国のITシステムを導入する誘因は小さくない。なぜなら、中国は、巨大な自国の金融システムでの稼働実績をアピールしうるだけでなくそれを通じて固定費を引き下げ、価格競争力のある形で売り込むことができるからである。これは高速鉄道や次世代通信規格「5G」と、構造的には全く同じメカニズムである。 

結果として生じうることは、多くの国々が自国通貨を維持しつつも、それを背後で支えるシステムは中国製が席巻するという状況である。つまり、人民元自体の国際化ではなく、中国製のCBDCシステムの国際化である。 

仮に中国が知的財産権の保護のために技術の一部をブラックボックス化した場合には、導入した国での金融システムの安定にも影響を与えうる。 

第2に、特にリテールに関する金融サービスについても、世界標準となる可能性である。 

実際、人民銀行は自国でデジタル通貨を開発していく際に、民間のプレーヤーとの連携を再三、強調している。これは中国内で既に進展しているイノベーションを阻害せず、むしろ促進させるという点で大変望ましい考え方であるし、官民での重複投資を避ける意味でも不可欠である。 

同時に、中国でリテール向けの金融サービスに携わる業者は、金融機関であれIT企業であれ、自国のCBDCという共通インフラの上に、それを活用した様々な金融サービスを開発し、展開することが可能になる。 

そうなれば、例えば一帯一路の上にある国々に対して、中国政府がCBDCのシステムを売り込むのと同時に、中国の民間企業がそのシステムとの親和性の高い金融サービスを展開する、あるいはそのためのシステムを売り込むということも容易になるし、その際には中国の巨大な国内市場での成功例をアピールしうることになる。 

もちろん、こうした官民共同の利益共同体による社会的なシステムの売り込みは、CBDCに限らず、ましてや中国だけでなく日本や欧州も様々な領域で行っていることであり、それ自体批判されるべき問題ではない。 

ただ、こうしたいわば「国家資本主義」的なアプローチこそ、グローバルな通商摩擦の中で対立点となってきたことも事実である。さらに言えば、IT技術や金融サービスは、従来から米国がグローバルにも支配的な地位を占めてきた分野でもある。 

フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEO(最高経営責任者)が米議会で語った「中国脅威論」も、リブラ批判に対する単なる言い逃れではなく、意外と本質的な面を指摘していたのかもしれない。 

*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。 

*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション研究部主席研究員。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。 

(編集:田巻一彦)