<クーデター発生以降、市民に対する銃撃などが行われているミャンマー。東南アジア各国が事態沈静化を図ろうとしたが──>

4月24日に東南アジア諸国連合(ASEAN)の事務局があるインドネシアの首都ジャカルタでASEANの臨時首脳会議が、加盟10カ国の首脳や外相による対面方式で開催された。議題は2月1日にクーデターで政権を奪取し、反対する市民への人権侵害、人命軽視の弾圧を続けるミャンマー問題だ。

会議にはミャンマーのミン・アウン・フライン国軍司令官も「ミャンマーの首脳」として出席、協議に参加した。ミャンマー国内で続く軍による市民弾圧停止など、ASEANの求めにどう応えるかが大きな注目となった。

しかし会議後に発表された「議長声明」ではASEAN各国が共通に抱く懸念が明記されたものの、付随する「5項目合意」には身柄を拘束され訴追を受けているアウン・サン・スー・チー氏ら、クーデター以前の政権幹部の即時解放が盛り込まれないなど、「玉虫色」の合意となった。

特にミャンマー問題に深い憂慮を示し、市民への実弾射撃など強権鎮圧の即時停止を強く求めるシンガポールやマレーシア、インドネシアの求めに対して、ミン・アウン・フライン国軍司令官は協議の場で明確な返答を避けたとされている。

さらに公表された「合意」の中でも「暴力の即時停止」が明記されているものの、どこまで実効力を伴う「合意」となるのか疑問視する見方が強く、今回の臨時首脳会議も「暴力行為の停止」という最大の目的について確固たる言質をミャンマー側からとるには至らず、実質的な成果には乏しい結果となったといえるだろう。

会議参加までの紆余曲折

今回の首脳会議は、ミャンマーからミン・アウン・フライン国軍司令官が参加するのかどうかが最大の焦点だった。タイ外務省経由で参加意向が伝えられると、会議をおぜん立てしたインドネシアのレトノ・マルスディ外相やジョコ・ウィドド大統領は「とりあえず対面の会議に引っ張り出すことには成功した」と安堵したという。

ところがミャンマーの民主政権を担っていた与党「国民民主連盟(NLD)」の議員らが中心になって軍政に対抗する「国家統一政府(NUG)」を16日に樹立。その代表を「臨時首脳会議」に呼ぶようにとの要請が届いた。

これには「NUG」を非合法組織として閣僚全員に逮捕状を出すなど強く反発していた軍政が敏感に反応。「NUGが来るなら出席を見合わせる、あるいはオンラインでしか参加しない」と拒否反応を示したという。

このためインドネシア政府、ASEAN事務局はNUGの参加を断念。ミン・アウン・フライン国軍司令官の参加を最優先させた経緯がある。

24日にジャカルタに到着したミン・アウン・フライン国軍司令官は軍服を背広に着替えて「ソフトムード」を演出する一方、ジャカルタ滞在時間を約6時間に設定。参加首脳・外相の中でも最短とすることで「余計な会談、接触」を入れる余地を最初から避けたという。

議長声明と5項目合意の背景

今回の会議の成果が共同声明としてではなく、議長声明になった背景にはミャンマー側が共同声明に難色を示したとされる。議長声明という形式にし、さらにその付属文書として「5項目の合意」という形で「成果」を強調するしかなかったというASEAN側の苦渋が表れているとの見方が有力だ。

この「合意」として発表されたのは、①暴力の即時停止、②全ての勢力による建設的対話の開始、③ASEAN特使による対話仲介、④ASEANによる人道支援の提供、⑤全ての勢力と対話促進のため特使のミャンマー訪問、という5項目である。

この「5項目合意」には前段の「議長声明」に盛り込まれた「外国人を含む全ての政治犯の釈放を求める声」に関しては触れられていない。

これは会議の席でミン・アウン・フライン国軍司令官が武力の即時停止と共に「明確な回答あるいは姿勢」を示さなかったことを反映した結果といわれている。

このように面談の会議に顔を出したミン・アウン・フライン国軍司令官にそれなりに気を使った結果の「成果」となったことから、今後果たしてミャンマーでの反軍政抗議活動を続ける市民への「虐殺にも匹敵する」とされる弾圧がどう変化するのかが最大の焦点となる。

今回の会議を主導したインドネシアとしてはASEAN特使の派遣や人道支援の提供で加盟国とミャンマーの理解が得られたとして成果を強調。今後さらに積極的な関与でミャンマー問題の平和的解決を目指す「第一歩」となったとしている。

しかし、会議が開催された24日にもミャンマー国内では軍による暴力で死者がでたとの情報も流れており、軍の強権的姿勢の変化は依然として見えてこないのが実情である。

[執筆者]
大塚智彦(フリージャーナリスト)
1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など