きのうの昼、テレビの情報番組で聞いたコメンテーターの発言が頭の片隅に残っている。菅首相と枝野立憲民主党代表による党首討論に関連して首相の説明責任を求めたものだ。要旨は以下のようだった。「暴風の中で山登りをするというのだから、リスクを上回るメリットがあるはず。それが何かを首相は説明すべきだ」。コロナ禍を暴風に例え、五輪開催を山登りに置き換えている。枝野代表や野党、尾身感染症対策分科会会長らの五輪中止論を側面支援する内容だ。例えとしては分かりやすい。暴風の中で遭難のリスクを犯して山登りするというのだから、リスクを上回るメリットがあるはず。それを具体的に説明すべきだと訴えている。説明責任を求めていると言えば聞こえはいいが、答えられないだろうという予測を前提にした首相批判である。さっと聞き流せば、なるほどと納得できる発言だ。
司会者も納得したのだろう。異論は挟まなかった。同席した他のコメンテーターからも特に発言はなかった。これを聞きながら何かおかしいな、と思ったのは私だけだろうか。テレビの情報番組は連日、コロナ禍での五輪開催の是非を論じている。論点は様々だが、開催反対派の多くはコロナ禍を暴風と感じていることだ。議論すべきはこの感じ方が妥当かどうかだ。個人的には暴風だとは思わない。雨模様で多少風が吹いているが、プロ野球の公式戦を中止するほどではないと思っている。もちろん、感染防止に細心の注意を払わなければならないが、早々と試合の中止を告知するほど深刻な事態ではない。予報は回復する見通しと伝えている。切り札であるワクチンの接種もかなりスピードアップしている。だが、五輪反対派はこれを暴風だという。1カ月後も暴風なら議論するまでもない。五輪は即中止だ。
それは菅首相も口にしている。「安心、安全を確保できないなら中止する」。現状から判断して1カ月先に「暴風になる可能性がある」、だから中止すべきだというならまだわかる。だが、そうだとすれば暴風に備えた対策を今から準備すべきだ。暴風の程度にもよるが、最悪を想定すれば私権制限を含むロックダウンの法整備も検討すべきだろう。暴風を想定しながら対策として要求するのは五輪中止だけ。これでは中止論の論拠が弱い。取り立てて五輪中止派を批判しようと思っているわけではない。推進派と批判派の現状認識や論理が噛み合っていないと言いたいのだ。日本ではこうした現象がいたるところで散見される。国会は常に論点が噛み合っていない。マスメディアは目の前で起こっている現象の一部だけを拡大して大騒ぎしている。「さざ波論」は死者に対する配慮に欠けると退けられる。誰も暴風の例えが“暴論”であることに気が付かない。だから議論は噛み合わない。