「物価安定目標の達成は来年も再来年も難しい」
9月下旬、日銀の黒田総裁の発言が市場関係者の間で驚きを持って受け止められました。原材料高による物価上昇は一時的だというのが黒田総裁の見方です。ただ総裁任期が残り半年に迫るだけに、賃上げを伴った物価安定目標につながる最後のチャンスと期待する声が日銀内にないわけでもありません。なぜここまで慎重な見方になったのか。そして今後の物価の動向は?(経済部記者 加藤ニール)
物価上昇は一時的か
物価上昇が止まりません。
今年8月の消費者物価指数(生鮮食品を除く)は2.8%。
日銀が目標とする2%を上回るのは5か月連続。
年内には、3%を超えるという見方もあります。
ただ黒田総裁は9月の会見で物価上昇は一時的だと強調します。
「いまの物価上昇は、国際商品市況や円安の影響で輸入品価格が上昇しているためだ。賃金が上がって物価が上がってという形ではなく、物価安定の目標の達成は来年も再来年も難しい」
物価目標が達成できていないのはなぜか
なぜ日銀が目指す形での物価上昇が実現できていないのか。
1つは黒田総裁が指摘するように賃金の上昇を伴わないコストプッシュ型の物価上昇だからということがあります。
もう1つは人々の物価観が変わらないこと。
その原因について日銀は2度にわたって検証しています。
まず2016年9月の検証。
このときは日本と欧米の物価観を比較。
日本の企業や消費者の物価の先行きの見方は、中央銀行が示す物価目標よりも、現実の足もとの物価に左右されやすいことが分かったとしています。
当時、原油価格の下落などで足もとの物価は下落。
日本の春闘では、前年の物価上昇を考慮して賃金交渉が行われるため、賃上げも足もとの物価に引きずられやすいと分析しています。
そして2021年3月の検証。
ここでは世代毎に物価観が違うことが分かったとしています。
生活意識に関する日銀のアンケートを詳しく分析したところ、1970年代のオイルショックをはじめ、インフレを一度も経験したことがない世代は、物価が上がるという見通しを持ちにくいことが明らかになったといいます。
物価が上がらないのは過去の経験によってデフレ期待が深く定着してしまっているためだというのが日銀の総括です。
過去の経験で培われた規範、社会に根づいた考え方のことを「ノルム」と言いますが、人々の物価観をあらわす際に最近、日銀内でよく飛び交っていることばです。
例えば黒田総裁は7月の記者会見でこう発言しています。
「企業に価格転嫁の動きが進んでいるが、あくまで輸入物価の転嫁だ。従来からのノルムが完全に変わったとは見ていない。まだ不十分だ」
10月3日に発表された日銀の短観では企業の5年後の物価の見通しが初めて2%に達しましたが、日銀のある幹部は「変化の兆しはあるが、ノルムが変わったとみるのは時期尚早だ」と慎重な見方を示します。
ノルムは変わるか
ではこの先の物価はどうなるのか。
物価研究の第一人者、東京大学大学院の渡辺努教授に聞きました。
渡辺教授は、いまの日本の物価上昇は、慢性デフレと急性インフレが同居した状態だといいます。
電気代やガソリンなど前年と比べて急激な上昇率の品目(急性インフレ)がある一方で、理美容代や家賃、定期、サービス関連など価格がほとんど動いていない品目(慢性デフレ)も引き続き多いというのです。
渡辺教授が8月の消費者物価指数をもとに作成した表です。調査対象の600品目についてその分布をまとめました。
グラフの横軸を右にいくほど前年同月と比べた上昇率は高くなります。
特にエネルギー関連の品目が目立ちます。
一方、グラフの中央。
上昇率がゼロのところに大きな山があります。
これは価格が全く動いていない品目です。
今年4月以降、物価上昇率は2%を上回っていますが、全体の3割から4割程度の品目は依然として価格が変化していません。
欧米とは大きく異なるといいます。
渡辺教授
「欧米は幅広い商品やサービスが値上がりする急性インフレが深刻で中央銀行が利上げで対応している。一方で日本は海外からもたらされた急性インフレと、従来からの慢性デフレが同居している。日本では原材料費の上昇を転嫁する動きはあるが、欧米のように賃金上昇を転嫁する動きは見られず、人件費の割合が高いサービス関連を中心に価格は据え置かれたままだ」
その一方で日本の消費者の意識には変化の兆しがあるといいます。
渡辺教授のアンケート調査によると、欧米に比べて日本の消費者は値上げに対してシビアだといいます。
馴染みのスーパーで10%の値上げが行われた場合どうするかという質問に対して、日本では去年8月の調査で57%の人がほかの店に移ると回答しました。
アメリカやカナダ、イギリス、ドイツでは馴染みの店で買い物を続けるという回答が多く他の店に移るのは3割から4割でしたが、日本だけが半数を超えました。
ただ今年5月の調査では、日本でも他の店に移るという人は44%に減り、欧米各国と同じ水準となりました。
身の回りで値上げが相次ぐ中で諦めにも似た気持ちで、値上げを受け入れざるを得ない状況にあるのではないかといいます。
渡辺教授は今後の物価動向を見る上でカギはやはり賃金だといいます。
渡辺教授
「急性インフレをきっかけに慢性デフレが是正される可能性はあり、原材料高だけでなく人件費も価格転嫁する動きが起こり、賃上げにつながるかがポイントだ。これまでの原材料高や円安局面では人件費はコストカットの対象になりがちだったが、それでは商品開発やサービスの創意工夫は生まれにくく競争力は高まらない。賃金について幅広い議論が必要だ」
相次ぐ値上げで家計の負担は増しています。
急性インフレをきっかけに賃上げの流れにつながり、長年日本経済を苦しめてきた慢性デフレから脱することはできるのか。
そして日銀の言う“ノルム”に変化があらわれるのか。
物価上昇が経済の好循環を生み出す形になるのか注目していきたいと思います。
注目予定
日本時間の未明には、アメリカの中央銀行にあたるFRB=連邦準備制度理事会が9月会合の議事録を公表します。
この会合でFRBは3回連続で0.75%という異例の利上げに踏み切りましたが、どのようなやりとりがあったのか。
また日本時間の13日夜には、今後のアメリカの利上げを見通す上で重要な消費者物価指数の公表もあります。