リード スティーブンソン

  • 長年のデフレで染み付いた値下げ対応からの脱却に挑む経営陣
  • 賃金・物価の好循環、中小企業を巻き込むことが不可欠

白築康司氏が制御盤メーカーの樋野電機工業に務めていた23年間、同社が顧客に値上げを要求したことはほとんどなかった。しかし今その必要性が生じている。

  白築氏は一風変わった行動に出た。価格転嫁のための授業に参加したのだ。値上げ交渉術は他の国々では当たり前のように使われているが、日本では長年のデフレで失われてしまったスキルである。

  松江市内の樋野電機で専務取締役を務める白築氏のキャリアは、バブル崩壊後の失われた30年に重なる。だが大規模金融緩和を経て、物価も給与も上がらない長期停滞は打ち破られようとしている。

  賃上げや輸入品をはじめとしたインフレは、樋野電機にとっては原材料や部品コスト上昇を意味する。製品に使われる銅の価格はこの4年間で2倍になった。価格転嫁に成功しなければ、創立から50年以上の同社でも次の時代に進めないかもしれない。「変わらなければ会社はないんじゃないですかね」。白築氏はこうつぶやく。

Japan Executives Take Lessons in the Lost Art of Raising Prices
樋野電機工業の白築康司専務取締役(松江市・7月)Photographer: Fred Mery/Bloomberg

  日本は経済の復活を謳歌(おうか)しているように、外からは見えるだろう。インフレが戻り、ウォーレン・バフェットのような大物投資家が株式市場を盛り上げる。

  だが目をこらすと状況は異なる。多くの人が働く中小企業はコスト上昇にあえいでいる。貪欲に見えるのではないかと恐れ、値上げ交渉を忌避する感覚はなかなか変わらない。

  樋野電機のような企業がインフレの壁を乗り越えられるか。それこそが経済復活を左右する。

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樋野電機にて(松江市・7月)Photographer: Fred Mery/Bloomberg

けんかじゃない

  4月、松江市のはずれにあるテクノアークしまねの一室に白築氏の姿はあった。作業着姿の地元の企業経営者や営業マンと一緒に、経営コンサルタントで、交渉術に詳しい観音寺一嵩氏の講座に参加したのだ。

  「過去30年に比べて潮目は間違いなく変わったということです」。観音寺氏は柔和な口調で語りかける。「今がチャンスです」。

  交渉のゴールは双方にとって最良の結果を見いだすことだと説明。戦国武将の名前を挙げながら、自分のタイプを理解しましょうと続ける。明確な目標を設定し、計画通りに進まない時のために代替案を用意する。ノウハウを次々と提示し、「けんかするわけじゃないんです」と続けた。

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観音寺一嵩氏Source: Hiroshima Prefecture

  観音寺氏は約25年前、アパレル業界で不動産関係の折衝を担当した後、交渉術のインストラクターに転身した。この1年ほど忙しかった年はないという。北海道ではトラック運転手に、広島県では工業製品のサプライヤーに、茨城県では部品メーカーを相手に話をした。

好循環の外側

  日本銀行は3月、マイナス金利政策を終了し、17年ぶりの利上げに踏み出した。賃金と物価の好循環の強まりが確認されてきていると判断したのだ。日銀は30日、31日に金融政策決定会合を開く。追加利上げを決めるかどうかに注目が集まっている。

  連合が発表した2024年春季労使交渉(春闘)における回答の最終集計結果によると、平均賃上げ率は5.1%と33年ぶりに5%を上回った。ただ300人未満の中小企業の組合では全体平均を下回る結果となった。賃金と物価の好循環の実現には全体の9割を占める中小企業で着実な賃上げが行われることが前提となる。

名目賃金の伸び11カ月ぶり高水準 | 実質は26カ月連続マイナス

  江戸幕府の年貢の取り立て姿勢を示す「生かさず殺さず」という言葉は、近代になっても産業政策として残り続けている。サプライヤーは長い間、経済をけん引し、グローバルで活躍する巨大企業に仕えることを期待されてきた。

  大企業は自分たちが力を持っていることを知っている。注文を取り下げれば、中小企業はたち行かなくなる可能性が高い。

  こうして不健全な関係性が生まれる。中小企業は契約を維持できても、利益は薄いままだ。公共政策を専門とする香港科技大学のドナルド・ロー教授は「企業がより多くを請求できなければ、利益を従業員に還元することはできない」と指摘する。

  賃金上昇を物価上昇につなげる流れがなければ、景気は低迷し、古典的な賃金・物価サイクルを起こすことができない。「もっと需要サイドのインフレの状況を見る必要がある」とロー氏は話す。

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松江駅前の閉店した百貨店(松江市・7月)Photographer: Fred Mery/Bloomberg

20年前と同じ 

  松江市での講習会では、日本政府が中小企業の苦境を理解していることを明確に示すサインがあった。公正取引委員会の担当者が姿を見せたのだ。価格交渉ができないようにする大企業の行為は違法であり、報告すべきだとのメッセージを発した。

  公取委が中小企業がらみの問題を取り上げるようになったのは約10年前のことだが、岸田文雄政権の後押しで数年前から本格化した。22年末には優越的地位の乱用に該当する恐れがある企業として、佐川急便やデンソーなど13社の企業名を公表した。

  今年3月には日産自動車に対して、下請代金支払遅延等防止法の規定に違反する行為が認められたとして、勧告を出した。

  講習を受けた白築氏は、価格転嫁のためのテクニックを学んで説得力のある反論ができるようになり、それを実行に移そうとしているという。

  明るい兆しもある。中小企業庁が6月に公開したリポートによると、価格交渉できる雰囲気がさらに醸成されつつあるという。

  ただ課題も残されている。「声を上げてほしいですね。必要なものは必要と言うべきです」。松江市の講習会でこう呼びかけた観音寺氏自身は、料金の値上げをしていない。同氏のクラスはかつてないほど需要が高まっているにもかかわらず、講習料は20年前と変わっていない。