長らく政権の座にある自民党に対し国民が最も忌み嫌っているもの、それは政治のあらゆる局面における不透明さだろう。旧安倍派を中心とする裏金疑惑はいまだにその全容が解明されていない。大袈裟に言えばこうした不透明さが根絶されないかぎり、自民党の支持率が回復することはないだろう。裏金疑惑の前に発覚したのがモリカケ問題だ。中でも森友学園の土地買収にまつわる疑惑は、当時、近畿財務局に勤務していた赤木俊夫さん(当時54)が自殺するという悲惨な結果を招いている。「どうして主人は自殺せざるを得なかったのか、その理由が知りたい」。妻の雅子さんが関連文書の開示を求めて提訴したのが2020年7月だ。1審の大阪地方裁判所は「非開示妥当」の判決を言い渡した。これに対して先月、2審の大阪高等裁判所国は1審とは逆に、「非開示違法」の判断を下した。これを受けて国は上告するかどうか、その判断が注目されていた。
被告である国はきのう、担当である加藤財務大臣が「上告しない」との方針を明らかにした。訪米前の石破首相から指示があったという。国はこれまで関連文書が存在するか否かも明らかにしていない。仮にあったとしても文書そのものは「開示しない」方針をとってきた。文書の存在について加藤大臣は「検察に提出した文書は財務省に戻ってきている。相当量だと聞いている」と述べ、その存在を認める発言をしている。問題はその文書がそのまま公開されるかどうかだ。林官房長官は「文書の開示、非開示は今後、財務省が法令の規定にのっとり国民に対する説明責任の観点から判断する」(NHK)と述べるにとどまっている。こういう説明を聞くと「なにをいまさら」と言いたくなる。立憲民主党の野田代表は「財務省には、関連文書の完全な公開を求めていきたい」と強調する。疑うわけではないが、政権をとってもその姿勢を貫けるのか。シロアリ発言があるだけにちょっと疑いたくなる。
高裁の判断も「非開示違法」と言っているだけで、開示せよと命令しているわけではない。日本は国民主権の民主主義国家である。文書があることを認めているのだから、その文書を開示するのは政府の当然の義務ではないのか。もちろん外交に関する国家機密など非開示の文書があることも十分理解できる。仮に限定開示といった方針をとれば、雅子さんはまた一から文書の全面公開を求めて裁判をしなければならなくなる。これは民主主義のあるべき姿なのだろうか。権力乱用ではないのか。財務省はなぜ文書を改ざんしなければならなかったのか、当該文書を公開すれば簡単にその妥当性が判定できる。国民に開かれた政府とは、各種情報を速やかに開示し、国民の判断を求める政府のことではないか。それをしない政府はとてもではないが「国民に寄り添う政府」とは言えない。政府・財務省の最終判断はいかに。