毎朝ネットサーフィンをしながらニュースを見るというのが日課になっている。毎日、コンスタントにニュースを読みたいのだが、現実の生活の中でなかなかクリアーに日課を消化できない日もある。それでも面白いニュースに行き当たった時は、その日が充実した1日になるような気になるし、めぼしいニュースがない日は脳細胞の活動も妙に停滞する。そんな生活を送りながら考えるのは、ニュースは決して毎日あるわけではないということだ。1年間を通してみるとニュースがない日のほうがはるかに多い。ニュースと思しきものは毎日おびただしいほど目にするのだが、想像力を掻き立ててくれるような、未来が垣間見えるようなニュースというのは数えるほどしかない。

ニュースがない日は出来るだけ脳細胞を刺激して想像力を掻き立ってようとするのだが、所詮は年金生活者。頭の中で音を立てながら崩壊していく脳細胞の方が、新たに誕生する脳細胞よりはるかに多い。想像力を掻き立てようとする意志はあるのだが、肝心の脳細胞は惰眠を貪ったまま覚醒しない。それでも年金で当面の生活を糊塗している身、生活上の不都合は特にない。生活なんてそんなものと割り切って仕舞えば身も心も軽くなる。昨今話題の裁量労働制度ではないが、全てが自分の判断にかかっている裁量生活者だ。日課も惰眠も自由自在。不足気味の年金に不満はあるのだが、それ以外はいまのところ悩みもストレスもない。強いて言えば、常識的なことしか考えられない思考力に大いなる不満を抱いている。

生活者としてはごくごく平凡で常識的な人生を歩んできた。他人に迷惑をかけたわけでもなく(本人がそう思っているだけかも)、世間の常識にてらして非常識な行動をとったこともない。平凡こそが最大の処世術と思い目立たず、控えめに、慎ましやかに生きてきた。そんな常識的な人間だが、唯一と言っていい願望はせめて発想ぐらいは“非常識”でありたいと思っていること。非常識というのはちょっと語弊があるが、要は世の中の常識に染まらない、世の常識をぶち破る一見非常識なことを発想したいのだ。が、いくらやってもそうはならない。お釈迦様の掌を飛び出せなかった孫悟空のようなものだ。二日酔いにかまけて惰眠を貪る脳細胞そのものが、常識という世界で安住している。