[東京 25日 ロイター] – 日本の代表的な英字新聞、ジャパンタイムズの新オフィスで、昨年12月3日、同社幹部と十数名の記者らが激しい論争を繰り広げた。対立に火をつけたのは、日韓摩擦の火種となっている「慰安婦」と「徴用工」について、11月30日付の紙面に掲載された「editor’s note」(編集長の説明)だった。
今後、ジャパンタイムズは徴用工を「forced laborers(強制された労働者)」ではなく「戦時中の労働者(wartime laborers)」と表現する。慰安婦については「日本の軍隊に性行為の提供を強制された女性たち(women who were forced to provide sex for Japanese troops)」としてきた説明を変え、「意思に反してそうした者も含め、戦時中の娼館で日本兵に性行為を提供するために働いた女性たち(women who worked in wartime brothels, including those who did so against their will, to provide sex to Japanese soldiers)」との表現にする。
こうした編集上層部の決定に、それまでの同紙のリベラルな論調を是としてきた記者たちは猛反発した。
「反日メディアであることのレッテルをはがしたい。経営陣として『アンチジャパン(反日)タイムズ』ではとても存続できない」と説明する水野博泰・取締役編集主幹に、記者側からは「ジャーナリズムの自殺行為だ」、「ファクト(事実)が問題であって、リアクション(読者らの反応)が問題なのではない」などの批判が噴出した。
安倍晋三政権に批判的だったコラムニストの記事の定期掲載をやめてから、安倍首相との単独会見が実現し、「政府系の広告はドカッと増えている」と編集企画スタッフが発言すると、「それはジャーナリズム的には致命的だ」との声も。翌日に開かれた同社のオーナーである末松弥奈子会長とのミーティングでは、発言の途中で感情的になって泣き出す記者もいるほどだった。
変更の表明から1週間ほどたった12月7日、水野氏は紙面に編集主幹の名で異例の全面社告を掲載した。その中で、同氏は変更によって読者の信頼を損なったことを謝罪したものの、変更自体を撤回する考えは示さなかった。
<部数と広告が低迷、厳しい経営続く>
日韓が対立を繰り返す慰安婦、徴用工という論争的な問題について、ジャパンタイムズはなぜ長年続けてきた表現を変更したのか。ロイターは同社幹部、社員、関係者、学識経験者ら数十人に取材し、その実情を探った。
同紙は日本初の英字新聞として1897年に発刊された。他の多くの日本のメディアと同様、第2次世界大戦中は政府の戦争遂行に協力する紙面を続けたが、終戦後は日本の責任を反省する社説を掲載、民主的な編集方針にかじを切った。「All the News Without Fear or Favor(恐れず、偏らない報道)」とのスローガンを掲げた同紙の報道姿勢にはリベラルとの評価があり、1998年には同紙の慰安婦記事について、保守系雑誌「諸君!」が「国を売るのかジャパンタイムズ」と題する記事を掲載したこともある。
一方、同紙の経営は厳しい状態が続いている。高度成長期には本紙以外の週刊の媒体を発行するなど拡大策を取ったが、バブル崩壊とともに収益が悪化、生き残りのため大規模なリストラを余儀なくされた。ピーク時に50億円規模だった売上高は、25億円程度に減少している。発行部数は4万5000部、従業員は約130人。販売の低迷だけでなく、リーマン・ショック後に激減した広告収入の改善も大きな経営課題だ。
1980年代から長らくジャパンタイムズのオーナーだった自動車部品メーカー、ニフコ(7988.T)の小笠原敏晶元会長は2016年11月に死去。ニフコは2017年6月、同社の全株を末松氏が持つニューズ・ツー・ユーホールディングス(千代田区)に売却した。末松氏はジャパンタイムズの会長に就任するとともに、ジャーナリスト経験のある水野氏を取締役編集主幹として招き入れた。
<「報道部の雰囲気が変わった」>
編集部門の新しいトップとなった水野氏は次々と新たな指示やメッセージを出し、その一方で記者の間には動揺も広がった。
同氏の就任後間もない2017年8月、東京新聞は、小池百合子東京都知事が慣例を破って関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送らないと決めたことについて、「排外主義助長の恐れ」などとする批判記事を掲載した。水野氏はこの記事について、記者宛てのメールで「こういうイデオロギー情報戦に安易に乗っからないようにしたい」と注意を促すとともに、「これを世界に伝えたところで、日本にとっても世界にとっても何1つ生産的、建設的、未来志向の結果をもたらさない」、「この件、報じる価値はまったく無い」などとの見解を示した。
水野氏からのメールを読んでショックを受けたと、現役記者の1人はロイターに話した。同記者によれば、同編集主幹の下では「こうした話題は慎重に扱わなければならないんだと、報道部の雰囲気が変わった」という。
昨年2月に、同紙は安倍首相との単独会見を行い、新聞紙面とオンライン版に記事を掲載したが、オンライン版の慰安婦に関する部分にはアスタリスク(*)が付き、それをクリックすると政府見解を示す外務省のホームページが開くようになっている。複数の同紙関係者によると、慰安婦の記述にある「forced」の部分が外務省の見解と異なると首相官邸関係者から電話で指摘を受け、水野氏が注記をつけるよう指示したためだったという。
それから数カ月後、水野氏は編集局幹部に対し、過去のジャパンタイムズに掲載された記事に自分の意見をメモとして付記した100ページを超える資料を配布し、慰安婦に関する説明文の「改定案」を提示した。
それまで使われていた「forced(強制された)」という単語を抜き、「日本の軍隊向けの娼館に従事した女性たち(women who engaged in brothels for the Japanese military)」という表現に変えたいという内容だった。また資料として、過去の同紙、共同通信、AP、ロイターなどの慰安婦関連記事やコラムの1つ1つについて、メモで「ほとんどが韓国側の視点」、「日本をこき下ろしたいだけ」などと批判した。
これらの表現の変更を巡る記者・編集者と水野氏の議論は、数カ月にわたって続いたという。
昨年10月、韓国の最高裁で、戦時中に日本の製鉄所で働いた韓国人の元徴用工が損害賠償を求めた訴訟で新日鉄住金(5401.T)に賠償金の支払いを命じた判決が確定した。ジャパンタイムズでもこれに関連する記事が増え、あらためて徴用工の英語表記のあり方が社内で議論されるようになった。
<外部の圧力は「断固として否定」>
徴用工と慰安婦の表記変更について、水野氏はどう考えているのか。
「1年以上にわたって議論を重ねた末、編集主幹たる私と編集局幹部の判断において最終決定した」。同氏はロイターの質問に書面でこう回答した。修正点に関しては「より客観的な視点を反映した」判断であり、「編集方針の変更を意図したものではない」と明言。同時に、「あたかも政治的圧力を受けたかのように誤解される余地を残した。しかし、ジャパンタイムズは外部圧力に屈したといういかなる見方に対しても、断固として否定する」と答えている。
同紙に圧力をかけたかどうかに関して、菅義偉官房長官は1月24日の会見で、「官邸ではまったくない。プレッシャーが具体的に何を指すのか承知していないが、官邸ではあり得ない」と否定した。
一方、水野氏はロイターへの回答の中で、定期掲載を取りやめたコラムニストには、「常設コラムは休止したが、代わりにOp-Ed欄(オピニオン面)への寄稿について提案した」と説明している。
同氏は、日経ビジネスの編集委員、ニューヨーク支局長を経て2011年8月から経営者向け教育などを事業とする「グロービス」に参画、広報室長を務めた。グロービス経営大学院の堀義人学長は、提唱する「100の行動から始まる『静かな革命』」の中で、「外国人が日本について知る玄関口となるのは、当然ながら英字メディアである」とし、「英字メディアが海外に誤解と偏見を拡散するのではなく、日本に関する正しい情報と正当な評価を構築する役割を果たす必要がある」と、英文メディアの編集方針に注文を付けている。
堀氏はジャーナリストの櫻井よしこ氏が理事長を務める「国家基本問題研究所」の元理事でもある。同研究所は昨年11月14日に、「『徴用工の』正しい用語は『朝鮮人戦時労働者』(wartime Korean workers)だ」とする提言をホームページに掲載した。この提言では、「朝日新聞、共同通信などの英語版やジャパンタイムズ記事で、徴用を『forced labor』と訳している場合が多い。これは歴史を歪める誤訳」だと指摘している。
<保守派は歓迎、一方で信頼性失ったとの声も>
同紙の表現変更について、同研究所は12月上旬、オンライン上に「ジャパンタイムズの英断を支持する」と題するコラムを掲載。その中で「歴史を歪める表現の是正を求め、提言や意見広告を発表してきた国家基本問題研究所は、同紙の英断を全面的に支持する」とした。また、朝日新聞に慰安婦に関する英文記事の表現の変更を求めてきた弁護士のケント・ギルバート氏は、ツイッターなどで「ジャパンタイムズの決断を応援するメッセージを送ってください」と呼びかけた。
一方、ジャパンタイムズの紙面を検証するため、学者らで構成する同紙アドバイザリーボードのメンバーだった佐藤治子大阪大学特任教授(国際政治)は、徴用工と慰安婦に関する記述の変更に関連し、この1年でどのように方針が変わったのかは分からないとしながらも、「クレディビリティー(信頼)を失った。変えなくてもよかった話、それを変えたというのはなぜだろう」と疑問を呈する。そして「政府より右寄りになってしまったということでレピュテーションが変わり、読者も離れる」のではないかと危惧した。
法政大学社会学部メディア社会学科の別府三奈子教授は今回のジャパンタイムズの表現変更に関連し、一部のメディアが政権寄りの報道姿勢に変遷していると指摘。「政権が(メディアを)コントロールしているというより、社内で上の顔を見て、世論の方を見ている、今は言わないでおこう、というトーンダウンが起こっている。ここ数年急に変わった」と話す。また同教授は、こうした流れは国家の論理と経営者の論理が強くなっている「世界的な潮流かもしれない」と話した。
ジャパンタイムズは収益立て直し策の1つとして2013年にニューヨーク・タイムズ(NYT)と提携、自社紙面とNYT国際版の2部構成でのセット販売を開始した。ロイターの取材に対し、NYTの広報担当者はジャパンタイムズが慰安婦や徴用工についての表現を変えたことについて、「両社の編集オペレーションは完全に分離されている。ニューヨーク・タイムズはこの問題について正確な表現を使用しており、今後もその方針は変わらない」としている。
韓国外務省は25日、ジャパンタイムズの表記変更について、「われわれは、日本軍の慰安婦、また徴用工として犠牲となった人たちに関し、一部の日本のメディアが歴史的な事実をねじ曲げる用語を採用したことを残念に思う」と文書でロイターにコメントした。
*韓国外務省のコメントを追加し再送ます。
宮崎亜巳、斎藤真理 取材協力:Hyonhee Shin(ソウル) 編集:北松克朗