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2019年春闘の集中回答日を前に、「ガンバロー」と拳を上げる全トヨタ労連傘下の組合代表者ら=3月7日、愛知県豊田市

 「今回ほど距離感を感じたことはない。こんなにかみ合っていないのか」

 トヨタ自動車の2019年春闘。回答日を1週間後に控えた労使交渉の場で、豊田章男社長はいらだちを隠さなかった。

 1台の車を共同利用するシェアリングや日進月歩の自動運転技術など、業界を取り巻く環境は激変。競争相手はグーグルなど海外の巨大IT企業にも及ぶ。自身が「生きるか死ぬか」と表現する危機感が社内で共有されていない。そんな問題意識があふれ出ていた。

 交渉は長引いた。

 回答日の数日前にトヨタ労使が賃上げ議論に決着をつけ、内容が報じられるとそれをほかの国内企業の労使が自社の賃上げの参考にする――。従来の春闘ではそんな構図が続いてきた。トヨタが「相場役」と言われてきたゆえんだ。

 今年は最終盤になっても決着がつかず、労使の議論は夜通し続いた。

 「今日中に方向性が出る状況ではない。時間がかかっている」。回答日前日の3月12日夜。トヨタ労使の決着をいまかいまかと待ち構える報道陣に囲まれ、トヨタ自動車労働組合の上部団体幹部は困惑した様子で同じ説明を繰り返した。

 結果が組合員に伝えられたのは、回答日当日の早朝。トヨタ労使の決着内容が回答日当日まで報道されなかったのは、1兆円の経常利益を見込みながらベアゼロ回答となった02年以来だった。

 回答の中身も異例だった。組合が「年6・7カ月分」を要求した一時金(ボーナス)について、会社側は「夏季120万円(3・2カ月分)」とだけ回答。冬季については、秋にもう一度話し合って決めるとした。年間の合計額で交渉するようになった1969年以降初めてのことだ。

「相場役」から変質

 「一律の賃上げ」に対する労使の意見の食い違いも、議論を長引かせた。

 一般的に、賃上げは定期昇給(定昇)とベースアップ(ベア)の2種類に分かれる。勤続年数や年齢に応じて給料が増える定昇に対し、ベアはその企業の賃金体系全体を引き上げる。一律の賃上げとは、このベアを全従業員にあまねく配分することを指す。

 経営側は今回、「トヨタの給与水準はすでに高い」として一律の賃上げに後ろ向きな姿勢を示した。だが、これはベアが配分されない組合員を出しかねない考え方。組合側は反発し、最終的に一律分を含む全組合員平均「月1万700円」の賃上げで合意した。

 異例ずくめだった19年春闘。そこで見せたのは「相場役」を担ったかつてとかけ離れた交渉の姿だった。ただ、組合も長期的には会社の考えに理解を示す。

 労使は新たな人事制度を議論する場を設けることで合意。この新制度について会社側は「全員一律の慣習を打破」することを掲げるが、組合側も「よりがんばった人に報いたいという考え自体は否定しない」(西野勝義委員長)と柔軟な姿勢を示している。

 トヨタ労組幹部は「会社がなくなったら終わりだ。生きるか死ぬかというときだから、うまくいくかわからなくても何かやっていくしかない」。

 必要ならば手を取り合って目的に向かう。トヨタの労使関係の原点は、70年ほど前までさかのぼる。

労使対立の歴史、「教科書」に

 〈六月を迎えた。労使双方とも疲弊しきっていた。それはわずか三百五台という、五月の生産台数が象徴していた〉

 史実に基づいて書かれた本所次郎の「小説 日銀管理」の一節だ。トヨタ自動車の労使双方の担当者が、いまでも春闘の「教科書」として読み継いでいる。

 舞台は1950年、戦後の混乱期に経営難に陥ったトヨタ自動車。資金繰りに窮した経営陣は、従業員削減と引き換えに金融機関の支援を取りつける。組合は激しく反発。ストライキの連続で職場は荒れた――。

 朝鮮戦争特需で業績はV字回復を果たすが、ストはその後も断続的に起こり、労使関係が正常化するには5年以上を要したという。

 トヨタ労使は62年、この労働争議を教訓に「労使宣言」をまとめる。「労使関係は相互信頼を基盤とする」。立場は違えど互いを尊重して目標に向かう。そんな決意が込められた「トヨタ労使のバイブル的存在」(トヨタ幹部)だ。

 労使がいま、協調して掲げるのが「中小企業との格差の是正」だ。

 トヨタは昨年の春闘で、組合の要求した「月3千円」のベースアップ(ベア)に対し、具体額を非公表とすることを前提に回答した。トヨタのベア額が明らかになると、中小企業がそれよりやや少ない額のベアを実施することが多く、賃金の格差が縮まらないから、との理由だった。

 実際、トヨタグループ内の賃金格差は大きい。グループの300労組以上が加盟する全トヨタ労働組合連合会によると、指標とする月額賃金(35歳、勤続17年など)は最大で13万円もの開きがあるという。

ベア非公表、効果は?

 今春闘では組合側も呼応するように要求段階からベア額を公表しなかった。全トヨタ労連やその上部団体の自動車総連も、同じ理由から、ベア額ではなく賃金の実額を重視した交渉への転換を打ち出した。

 ベア非公表への反応は様々だ。トヨタ系大手部品メーカーの労組トップは「自社の課題に即した議論ができるようになった。これまではトヨタのベア額を超える超えないの議論になっていた」と歓迎。今春闘では規模の小さい労組ほど前年と比べて高い賃上げを獲得する傾向が出た。

 懸念も残る。いまは企業業績が良く、人手不足も賃上げを促す要因だ。環境が変わっても同じ効果が期待できるのか。トヨタ労組OBは「現実は甘くない。組合の力のないところはどんどん下にいく可能性がある」と指摘。そもそも利益水準が異なる現状でトヨタの給与に近づけることは困難との見方も根強く、あるトヨタ系部品メーカー社長は「ベアが非公表でも差は開く一方だ」と嘆く。

 「相場役」を自ら降りる格好となったトヨタ労使。日本の春闘のあり方も変えてしまうのだろうか。

 日本総研の山田久主席研究員は「トヨタの賃上げに他がついてくる構造は20年ほど前に終わっていた。ベア非開示の動きも広まらず影響は限定的だ」と指摘。そのうえで「個別の労組では力が弱いので、金額を開示しながら一緒に交渉するのが春闘の意義。将来は、ベア額を開示できることが望ましい」と話す。(初見翔)