9月入学論がにわかに浮上してきた。大阪の高校生がネットで秋入学の検討を呼びかける署名活動を開始したことがきっかけになったらしい。高校生は受験への不安解消、グローバル化に対応した留学率の向上、国際的な人材養成といったメリットを挙げ、秋入学の検討を求める署名活動を開始した。そして「私たちの人生の中でかけがえのない青春の1ページに、もう一度色を塗れるチャンスをいただけないでしょうか」と訴えている。秋入学は以前から課題になっている。国際社会とともに歩む日本としては、避けて通れないテーマだろう。個人的にはもちろん賛成である。

ただ、この動きに政治家が我先に、功を争うように追随することに、なんとなく素直に乗れない“空気感”のようなものを感じるのだ。コロナウイルスの感染拡大がはじまった当初、北海道の鈴木知事はリスクをとって全道に非常事態宣言を発令した。この行動が一人の政治家として高い評価を得た。大阪の吉村知事は3月の3連休の前に、兵庫県と連携して阪神間の往来の自粛を要請した。この後、すったもんだはあったものの、緊急事態宣言につながっていった。吉村知事に乗り遅れた小池都知事は翌週、「オーバーシュート」「ロックダウン」と過激な表現で都民に行動の自粛を要請した。コロナ禍の混乱期である。思いつきのような表面的な強い言葉が、政治家の能力と勘違いされる可能性が高くなっているのである。

ことほどさように大きな政策展開を早めに打ち出す、これが政治家の評価を左右すると勘違いさせるムードがある。国民民主党の玉木代表はツイッターでいち早く一人当たり10万円の現金給付を打ち出し、珍しく有権者の喝采を浴びた。感染対策班のリーダーであり「最低でも7割、極力8割」の生みの親である北大の西浦教授はいまや時の人である。だが、「7割」「8割」の根拠はいまだに明らかになっていない。にもかかわらず、国民全体がこの目標に向かってひたむきに努力している。私は知らないが、これこそが戦前の「大政翼賛会」、あるいは「欲しがりません勝つまでは」の“空気感”ではなかったのか。9月入学論にも同じような匂いを感じるのだが・・・。