今日は三島由紀夫の没後50年だ。1970年11月25日、ノーベル賞候補にノミネートされていた三島は陸上自衛隊の市谷駐屯に乗り込み、バルコニーの下に集まった隊員に向かって憲法改正のためのクーデターに決起せよと訴えた。だが、三島に賛同する隊員は一人としていなかった。クーデターに失敗した三島は総監室にとって返し、人質にとった益田兼利総監の目の前で腹を掻っ捌いて自害した。楯の会のメンバーである森田必勝が、日本刀で三島の首をはねた。当時49歳。遺作となった「豊穣の海」を脱稿すると同時に自ら命をたった。私はこの時大学1年生。当時大学は全共闘運動が荒れ狂っていた。入学したものの、キャンパスはバリケード封鎖されており、授業はほとんどなかった。バイトとノンポリながら学生運動にのめり込む日々だった。

三島は当時の活動家から見れば天敵と言っていい存在。1年前、東大全共闘と三島の討論会が東大の駒場で開催された。右翼・天皇主義者の三島と左翼・過激派の対決は、血で血を洗う闘論になるのではと世間の注目を集めていた。だが実際は和気藹々とまではいかないものの、右翼と左翼がこころの奥底でお互いを認め合う奇妙な討論会だった。その三島の割腹自殺を受けて私の頭を最初によぎったのは、「豊穣の海は完結したのだろうか」ということだった。当時すでに3巻まで読み終わっていた私は、三島の死より長編小説の行方の方が気になった。この日、大学周辺の喫茶店はどこもかしこも超満員。テーブルを覆うように額を寄せあった学生たちが、三島の死の意味を少しでも理解しようと必死の形相で激論していたのを思い出す。遠い昔の学生生活の忘れられない一場面だ。

あれから50年か、時のたつののなんと速いことか。没後50年を迎えるにあたって、いろいろなメディアに回顧録が掲載されている。それを眺めながら、「豊穣の海」を再読しようと思い立ったのはコロナ禍の今年春のこと。再読しながら三島の死の意味や、あれからの自分の50年を振り返ろうと思いたったのだ。だが、実際にはどちらもやらなかった。遺作を手に取ることもなく、自分史を紐解くこともしなかった。流れるままの時間に身を委ね、それなりに忙しげに毎日を過ごしている。没後50年の当日を迎えて、人生って結局そんなもんだと思っている。三島が追求した輪廻転生なんてありえない。刻々と流れる時間にからめとられた人生が終わる時、それはすべてが「無」に帰する時だ。それでいいのだ。それが人生だ。今朝目覚めた時、ふとそんな気がした。