東日本大震災から今日でちょうど丸10年。朝日新聞によると死者は15899人、行方不明者は2527人(2020年12月現在)。死者の内訳は宮城県が最多で9543人、岩手県4675人、福島県1614人、ほかの9都府県で67人。震災後の体調悪化や自殺による震災関連死は3767人(2020年9月現在、復興庁調べ)。まさに想像を絶する大震災だった。そしてあれから10年。時の流れのなんと速いことか。何が変わり、何が変わらなかったのか。震災10年を機に干からびつつある脳みそで、この間に想いを巡らすのも悪くないだろう。誰にもある「あの日」、「あの時」。私は窓際に面した会社の会議室で会議をしていた。テーマが何だったのか全く記憶にない。ただ、隣に立っていた老朽化したビルが、今にもこちら側に倒れてきそうだったことを鮮明に覚えている。

揺れはかなり長かった。巨大地震に見舞われたことは直感的に理解した。揺れがおさまった直後から社内はテンヤワンヤの大騒動になる。エレベーターは動かない。階段を上がったり降りたり、壁にいくつか亀裂ができている。地震の大きさを物語る爪痕だ。地震発生は14時46分ごろ。夕方の6時過ぎには社内に地震対策本部が設置された。仙台に応援部隊を派遣することが決まり準備に取り掛かる。テレビは津波情報を繰り返し流している。津波に飲み込まれる家屋や道路の映像を見ながら、どこか遠い国の出来事のような気がした。地震の揺れは骨の髄まで浸透した。だが、津波はまるで実感が湧かない。都内でも電車が止まり、コンビニの陳列棚がどこもかしこも空っぽ。街中に帰宅難民が溢れていた。開いている飲食店はほとんどない。やっとのことで中華料理に潜り込んだ記憶がある。

巨大地震に東京電力の福島第一原発の事故が重なり、悲惨な自然災害に人災が加わる。福島県をはじめとした東北地方だけでない。日本中が原発の脅威に晒された。この10年間、何回か被災地を訪れた。記憶に新しいのは会社を辞めてから訪れた仙台市立荒浜小学校。校舎を震災遺構として公開している。鉄筋3階建ての建物を飲み込んだ凄まじさを直に見て、津波の恐ろしさを現実味をもって実感した。気仙沼の牡蠣養殖業者を取材した時には、自然と共生する地元漁業者の逞しさを垣間見た。案内してくれた畠山重篤さんには「森は海の恋人」(文春文庫)という著書がある。経済活動は自然とともにあるべきだと考えるようになった発端は、今から思えば東日本大震災にあったような気がする。あれから10年たった。これからの10年、日本は果たしてどこに向かうのだろうか。