濱口竜介作品、「ドライブ・マイ・カー」を観た。アカデミー賞にノミネートされたこともさることながら、先輩からの強烈な推奨に促されて映画館に足を運んだ。この映画をネタに飲み会をやろうと言うのが提案の趣旨。コロナ禍でなければこんな提案はなかっただろう。単に「飲もう」と言えばすんだ。引きこもりが長期化している間に、世界はどんどん変わっていく。映画だけではない。オミクロン株との戦いは未だにエンドが見えない。ウクライナでは罪のない市民が殺されている。非情であり、無情だ。戦わずにすめばそれに越したことはない。だが、生活の中にも戦いが潜んでいる。家福悠介、俳優にして演出家。妻・音を心の底から愛している。妻は女優から脚本家に転身。夫を愛し、2人の生活に満足している。心が通じ合い隠しごとのない夫婦だったが、音が自分以外の男とセックスしている。「なぜ?」、音に対する“謎”が広がる家福。悩み、もがき苦しむ。空回りする心の戦いがはじまる。

分からないことが多すぎる女。それでも男の心は火のように赤く燃えて女に引かれていく。女もそうかもしれない。原作「女のいない男たち」で村上春樹が追求したテーマだ。真っ赤な「サーブ900」がこの映画を象徴する。三浦透子演じる専属ドライバー(渡利みさき)がそのサーブを引き立てる。無表情で無口、何を考えているのかよく分からない。妻・音の対極にいるような存在だ。美人でもない。だが、女としてどことなく謎めいている。妻のセックス現場をたまたま覗き見てしまった家福。傷ついた心に蓋をするように「見なかったこと」にする偽りの人生を演じていく。その一方で、チェーホフ・「ヴァーニャ伯父」の演出家としては、冷淡にして、かつ、厳しい演技指導をする。演劇のことはまったくわからないが、偽りの人生を演じる家福の心に夫を欺き、嘘と偽りを貫いた最愛の妻・音の生前の姿が棘のように突き刺さる。考えれば考えるほど女の謎は解けない。

3時間の長編。映像や構成でも新基軸がいっぱい盛り込まれている。劇中劇は日本語、英語、韓国語など多言語で展開される。舞台上のスクリーンに翻訳が表示されている。多国籍にして多言語。この構成も斬新だ。ラストは聾唖のソーニャが手話でヴァーニャ伯父さんに語りかける。「どんな大変なことがあっても生きていきましょう」。沈黙がスクリーンに不思議な空間を作り出す。本編の最後でみさきは家福に語りかける。「女の人にはそういうところがあるんです」、「(それは)病みたいなものなんです。考えてどうなるものでもありません。あるがままに呑み込むしかないんです」、娘のような年下のドライバーに諭される家福。本編のタイトルがどうして「女のいない」なのか、気になっていた。本編と映画、作ったのはともに男だ。みさきの言葉も男がつくっている。要するに男が「女の心の世界」を思い描いている。いい映画だった。ただし179分という上映時間はちょっと長かった。