[東京 10日] – 長短金利操作(イールドカーブコントロール、YCC)の修正は7月会合で通すことができたが、日銀にとって、出口までは「まだまだ遠い」と誰もが感じている。
植田和男総裁が次にフォーカスを当てるのは、来年の賃上げだろう。7月の総裁会見では、秋に消費者物価指数(CPI)がいったん鈍化した後、再拡大していく見通しを示した。
しかし、植田総裁は、その再拡大のペースには自信がないとも述べていた。筆者は、この発言が2024年春の賃上げを意識したものだとみる。おそらく、植田総裁は、誰もが困難とみる目標を掲げて、自分の慎重さをアピールしつつ、出口も模索するつもりなのだろう。
その戦略は、行動経済学などで引き合いに出される「マシュマロ実験(テスト)」と呼ばれる手法にならっていると、筆者はみている。
<日銀流のマシュマロ・テスト>
子どもの自制心を試すテストが、マシュマロ・テストである。心理学者ウォルター・ミシェル氏が子どもたちに2つの選択を求めた。今すぐにマシュマロを食べるのならば、マシュマロは1個。もしも、15分後までマシュマロを食べるのを我慢すれば2個食べてよい。
さて、どちらを選ぶか。このテストで、我慢できた子どもは大人になって、社会的成功を収めていることが多かったという。他人からみれば、我慢できる子どもの方に信頼を感じる。
植田総裁は、来春の賃上げを待つことで、世の中に出口戦略に動くことを我慢したという「評価」をつくり出し、その代わりにマイナス金利解除に動こうと考えているのだろう。自分たちにマシュマロ・テストを課しているのだ。
十分に賃上げができていなければ、変動型住宅ローンを借りている家計は利上げで大きなダメージを負う。だから、2023、24年の春闘で十分に賃上げ率が高まることを条件にして、利上げに動こうとするのだろう。自分たちは我慢することができる中央銀行だと示し、正常化への批判を封じようとしている。
<行動経済学的な手法>
植田日銀がスタートして、様々な場面で、日銀は行動経済学的なアイデアを多用していることに気付く。
植田総裁は、出口について問われると「時間をかけて判断することが重要だ」と答える。この「時間をかけて」という表現は、遠い先にある痛みに人間の感覚は寛容になる心理を利用した発言だ。
これが、例えば「1カ月後から判断を進めていく」となると、ドキッとする。双曲割引という考え方では、近い将来の痛みは大きく見えて、遠い将来の痛みは小さく見える。
「金融緩和をなるべく長く続けるために、副作用対策を講じる」というアナウンスも、長期計画で金融緩和を長く続けるというアメを見せながら、足元では長期金利の変動幅を上下0.50%から事実上、上限を1.00%に引き上げる見直しを我慢させている。長期金利が上昇することに対して「これは金融緩和を長く続けるための我慢だから仕方ない」と思わせている。
出口戦略は遠くに見せて、政策修正は長期計画のために仕方なく我慢すると思わせている。心理バイアスを逆手に取っていることは、植田総裁が経済学者としての知見をフルに活用しているということなのだろうか。
<賃上げとのリンクは不安定>
植田総裁は、物価上昇に対して、そこに賃金上昇をリンクさせて考えたがる。2023年4月に、日銀は発表文にあるフォワード・ガイダンスの文言を書き換えた。「賃金の上昇を伴う形で、2%の『物価安定の目標』を持続的・安定的に実現していくことを目指している」と、物価に賃金をひも付けした。
しかし、賃金は金融政策で自由にコントロールできる対象ではない。物価でさえ、金融政策の効果が為替レートを通じて部分的にしか影響を与えられない。それに賃金には粘着性があって、上下に変動しにくいという特性がある。物価や賃金は上がらないのが普通だというノルム(規範)は、植田総裁が考えるように、徐々に変わってきているのだろうか。
賃金についてみてみたい。正直なところ、賃金を正しく測る統計にも問題があると思うが、今はそれに目をつむっておく。厚生労働省の「毎月勤労統計」では、現金給与総額の前年比が、2023年4月に0.8%、5月に2.9%、6月に2.3%と高まっている。ただ、6月の伸び率を詳しくみると、夏季賞与の効果が大きく、春闘によって2%以上の賃上げが実現しているわけではなさそうだ。
夏くらいから、大手企業の春闘に遅れて、中堅・中小企業の賃上げが進んでくる。そこで十分な賃上げが実現できているかどうかは不確実性がある。個別の業種でみると、医療・福祉、教育・学習支援、学術研究等は、伸びが鈍いままだ。
春闘に参加する大手企業のノルムは、徐々に変わりつつあるかもしれないが、依然としてノルムが変わらない業界も多いと思える。賃金を物価とリンクさせる考え方は、間違ってはいないが、あまり厳密に考えると足元をすくわれる可能性もある。
<ハト派路線の落とし穴>
2024年の賃上げに賭けて、それまでは我慢強く待ち続けることは、ハト派路線の植田総裁の信用度を高める対応と言える。
しかし、日銀自身がコントロールできない賃金動向を頼りにすることは、「追い風」頼みになりかねない。もしも、風が止まったり、意外に風が弱かったときには、金利正常化は長い期間棚上げになる。
国民経済としてマイナス金利をずっと続ける方が、よいのかもしれない。無理に利上げをして、2000年8月の速水優総裁(当時)のように求心力を失うことは避けられる。
それでも、植田総裁が就任時に語っていた「積年の課題であった物価安定の達成というミッションの総仕上げ」は、途方もなく遠ざかってしまう。植田総裁の求心力もまた低下すると思える。2024年の賃上げに賭ける戦略は「危ない橋を渡っている」ようにも感じられる。
編集:田巻一彦
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*熊野英生氏は、第一生命経済研究所の首席エコノミスト。1990年日本銀行入行。調査統計局、情報サービス局を経て、2000年7月退職。同年8月に第一生命経済研究所に入社。2011年4月より現職。