タレント・松本人志の芸人生命が危機に瀕している。想像するに彼はピエロのような擬装(カムフラージュ)を続けながら、いずれお笑い芸人として第一線から静かに、いや騒々しく退席していくのだろう。それにしても松本人志は、最近の日本の擬装の構造をものの見事に象徴しているように見える。ジャニーズ問題、宝塚問題、そして今回の吉本興業問題。事件の中核には有能な、あるいは有能と見られていたタレントや経営者がいて、それを事務所が取り巻いている。その周辺にテレビ局があり、ファンがいる。いずれの問題にも共通点がある。日本社会の中でインナー化した擬装の構造をつくっていることだ。ジャニー喜多川は“小児性愛”を、輝かしい伝統に裏打ちされた宝塚は“厳しい上下関係”を、松本人志は“女性献上システム”をインナー化して擬装した。

インナー化された人たちは日本の健全な社会常識や倫理観を無視する。無視することによってインナーとしての結束が強化されるのだろう。ジャニーズ事務所に所属するタレントは、ファンの圧倒的な支持を得た。宝塚は上下関係の厳しさが一般社会から評価されもした。松本にいたってはお笑い界のカリスマに仕立て上げられた。これに加担したのがテレビ局だ。ジャニーズ問題で責任が問われたテレビ局は、個別に自らの過去を総括し、反省と再発防止の弁を滔々と述べた。その舌の根も乾かぬうちに、今度は松本を擁護するかのような素振りを見せた。ジャニーズ問題で一体何を反省し、総括したのだろう。週刊文春が松本の擬装を暴露した直後に吉本興業は、即座に「事実無根」のコメントを発表している。おそらく前から事実関係を掌握していたのだろう。

落語家の立川志らくは松本を批判するジャーナリズムを批判、松本を擁護した。擬装の構造には触れていない。これもいまの世の中に対する一つの不満の表明だろう。だがインナー化による擬装はお笑い界だけではない。自民党のパーティー券疑惑。派閥はインナー化し、派閥全体が不正に金集めする“闇サイト化”した。派閥は国民のため、庶民のために切磋琢磨するという前提のもとに限って、その存在が社会的に容認されている。インナー化した派閥は国民から遊離し、いやもっと正確にいえば、国民を無視した金集め集団に過ぎない。探せばインナー化した集団は日本中のいたるところに存在するだろう。村や町、行政や企業、立法や司法も政策決定を司る一部の人たちはインナー化しているかもしれない。インナー化を排除せよと言っても無理だろう。せめてインナーに属する人たちには常識を心得、擬装の誘惑に染まっていないことを願うのみだ。

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