混迷する国会ではとうとう解散論が飛び出した。立憲民主党の枝野代表が内閣不信任案提出の可能性に触れたことに対抗して、自民党の森山国会対策委員長が6月解散説を持ち出した。政治通と称する評論家が少し前から解散説を流し始めており、国会をボイコットしている野党対策としてどこかで、誰かが考えているのだろう。それはきっと“官邸”だろう、と誰もが忖度したくなる。いずれにしろ、総理大臣の専権事項と言われる「解散」の二文字がかくも軽々しく流布される現状は嘆かわしい。毎度繰り返される国会での不毛な駆け引き。旧態依然で進歩がなく、個人的には再び三たびの“うんざり”である。

「うんざりする」という言葉を個人的に使い始めたのは、自民党の二階幹事長と小泉筆頭副幹事長が使った後である。当時もいまもそうだが、この言葉が日本の政治状況を端的に捉えていたと感じた。モリカケだ、公文書改ざんだ、自衛隊の日報隠しだと連日のように報道されている最中に出た「うんざり」の一言が、個人的にスッと腑に落ちたのである。そのあとも教育現場への文科省の圧力疑惑、財務次官のセクハラ疑惑と続き、うんざりすることどもは一向に後を絶たない。きのうはTOKIOのメンバーのセクハラ疑惑まで飛び出した。うんざりすることはどうやら政治の世界だけではないようだ。

このコーナーも4回目になった。別に意識して通し番号をつけているわけではない。自然とこうなった。この際、うんざりすることをシリーズ化してどうしてこうなるのか、うんざりするほど考えてみようかという気になっている。先日、知人と話をしていたらその彼も「うんざりする」といっていた。どうやらうんざり症候群に取り憑かれているのは私だけではないようだ。自民党の政治家に限らず野党もうんざりしているのだろう。官僚もメディアも評論家もコメンテーターも恐らくみなうんざりしていると思う。考えてみればうんざりすることは政治の世界だけではない。車を運転していて思うのはドライバーのうんざりするようなマナーの悪さだ。生活の場にも広がるうんざり化。どうしてこうなったのだろう?うんざりしながら考えるのもいいかもしれない。