フリージャーナリストの安田純平さんが先週末記者会見を行い、今回の事件で迷惑をかけた関係者に謝罪するとともに、人質となった経緯や状況について説明した。あわせてネットなどで批判を浴びている自己責任についてこれを認める発言を行った。至極当たり前のことで特段追記すべきことはない。強いて挙げれば中東の危険地帯では人質ビジネスが平気で行われて、用意周到に準備した安田さんも簡単に騙されてしまったことぐらいか。安田さんも「自分の凡ミス」とシリアに入国早々とらわれの身となってしまった失敗を認めている。ミスを認め反省している人を批判するほど愚かな行為はないだろう。安田さんをめぐってネット上の批判がこれで収束することを願いたい。

と同時に、どうしてこの件で自己責任論に火がつくのか、改めて不思議に思った。思想・信条の自由を容認する自由主義をベースにした社会に自己責任が伴うのは自明の理だ。自己責任が問題になるのは自己責任が貫徹しない要素が社会の中にある時だけだ。わかりやすい例を挙げれば投資家が株式を買って損失を被った場合、それは投資家の自己責任である。政府も証券会社も株式の発行会社(A社)も損失の保証はしてくれない。投資家はそんなことは百も承知でA社に投資する。これが自己責任だ。ただし、A社が財務内容を毀損するような事実を隠蔽していた場合、投資家は自己責任を貫徹できなくなる。この場合は、投資家は自己背金を免れることができる。安田さんのケースで言えば、政府が中東地域に関する危険情報を意図的に隠蔽した場合に限り、安田さんは自己責任を免れる。

今回のケースでは政府にそうした落ち度がない。だからこの問題で自己責任論を提起するのは的外れである。安田さん救出に多大な税金が投入されたとか売名論といった批判も論外。安田さん事件で取り上げるべき本質論は日本社会(特にSNSで批判する匿名の論者)の中に、危険地帯に出かけて行って命がけで情報収集するフリージャーナリストに対するリテラシーが決定的に欠けているという実態である。情報というのは本来「敵情報告」が語源で、これが「情報」と簡略されたというのが西部邁氏の解釈である。情報収集にはもともとリスクと危険がともなう。昨今のマスコミは記者クラブの中でぬくぬくと情報収集し、批判めいた記事を書き続けているといったイメージがある。ひょっとすると大手マスコミ自体が、読者の情報リテラシーを引き下げているのかもしれない。安田さんに対する批判の本質は、凡ミスでシリアに入国した途端に人質になってしまったことである。取材活動ができず持ち帰ったのは拘束中の様子だけ。そのことは本人が一番悔やんでいるだろう。