表現の自由をめぐる日本人の知的レベルが、「あいちトリエンナーレ2019」で試されている。テーマは「表現の不自由展・その後」。8月1日に開幕したが3日後には抗議が殺到して展示を中止した。その展覧会が昨日再開されたが、河村名古屋市長が再開に反対して抗議の座り込みを行なったほか、入場者はくじ引きのうえ1回あたり30人に制限されるなど、異例ずくめの再開となった。開幕当初から放火予告電話やメールでの抗議が殺到、運営スタッフの安全が脅かされると展覧会は早々に中止に追い込まれた。その展覧会の再開もまた、表現の自由をテーマとした文化活動とはとても思えないような政治性を帯びたものとなった。

憲法21条には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」とある。舛添要一氏はツイッターで「展示内容には反対だが、君がそれを展示できるよう最後まで戦う」というヴォルテールの言葉を引用して再開を擁護した。河村市長はツイッターで「申告内容がかくされる、県は市とまったく話し合いなし、すべて独断、実行委員会開かれず」と運営のあり方を再開反対理由としてあげた。実行委員会会長の大村愛知県知事は「県立美術館の敷地を占拠して、誹謗中傷のプラカードを並べて、美術館の敷地の中で叫ぶ。芸術祭のお客様の迷惑も顧みず、常軌を逸しています。厳重に抗議します」と、ツイッターでやり返す。舛添氏は珍しくまっとうだが、政治家2人は「表現の自由」に名を借りた政治闘争に終始する。

表現の自由をめぐる議論はことほどさようにいつも噛み合っていない気がする。誰もが否定しない「表現の自由」。しかし、誰もが腹の中ではその存在を認めていない。嫌いでも反対でも表現する自由は認める。ものすごく単純で簡単な原理だと思う。表現の自由を認めた上で芸術作品として「平和の少女像」否定する。この関係が成り立たない限り芸術作品をめぐる議論は深化しないだろう。そんなことを考えながらニュースを見ていたら、香港のデモを擁護した米国のプロバスケット・チームに対して中国が放映拒否した。批判の矛先はNBAに向かったが、謝罪を求められたコミッショナーのアダム・シルバー氏は「NBAは選手や職員、オーナーなどの発言を禁じることも、促すこともしない」とこれを拒否した。さすが米国だ。「表現の自由」を尊重するというのはこういうことだ。