いまさらながらと思いつつ、「身の丈に合わせる」ことの是非について考えてみた。「身の丈発言」は10月24日に萩生田光一文部科学大臣がテレビ番組で語ったもの。来年度から導入される予定だった英語民間試験について、「自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえばいい」といった趣旨の発言をした。これが教育格差を容認するものとして批判され、萩生田氏は謝罪、発言の撤回に追い込まれた。最終的には英語民間試験をこのまま実施すれば教育現場で不公平が生じる懸念があるとして来年度の導入を見送り、制度そのものの見直しをおこなうことになった。これが一連の流れである。この発言をめぐるメディアの論調は必ずしも一様ではないが、批判的に捉える報道が圧倒的に多い。

憲法(第14条)には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定されている。文部科学大臣という立場からして萩生田氏の発言が「失言」であることは間違いない。だからと言ってこの発言が教育格差を容認していると断定するのもいささか行き過ぎているような気がする。身の丈に合わせながら大多数の日本人は生きている。かくいう筆者も「分をわきまえ」「分相応」に「身の丈」に合わせて生きてきた。明治大学の斎藤孝教授によると「『身の丈』以外にも日本語には『分際』や『分限』『身のほど』など同様の意味の言葉があり、昭和までは日常的に使われてきました。それを多用することで社会の安定性を維持しようとしていたのだと思います」(朝日新聞、6日付)としている。

問題は「身の丈に合わせる」発言が格差容認と受け止められていることである。東大進学率は裕福な家庭の子供ほど高いという現実は、一般的にはよく知られている。教育もだいぶ前から格差を反映しているのである。教育だけではない。非正規雇用の拡大など働くことそのものの格差も拡大している。賃金格差が広がり、年金や医療、介護にも格差は忍び寄っている。「2000万円問題」を持ち出すまでもなく金融格差は拡大する一方だ。「身の丈」論争に明け暮れる政治家やメディア。「身の丈にあわせる」しかない国民。「身の丈」に合わせればよかったひと昔前に比べ、いまは「身の丈」に合わせる以外に為す術がないような様相である。昨今の「身の丈」には何となくうら悲しい響きがある。