自民党の総裁選を眺めながら感じることが一つある。いったい誰が優勢なのか、まだ告示前だから致し方ない面はあると思うが、それにしても見通し好きのメディアから優劣に関する情報が一切出てこない。これが本来あるべき姿なのかもしれないと思いつつ、どうして優劣情報はないのか。愚考しながら独断と偏見で原因を探しみた。行き着いた結論は「派閥の締め付けがなくなって議員個人の自主投票になりそうだから」。そういう仮定を立てると総裁選の現状がほどよく理解できるような気がする。ただしこれも、独りよがりの偏見だらけの見立て。だが、当たらずといえども遠からず、意外に政治部記者の取材の本質をついているのではないかという気もする。政治部記者に限らず自民党をはじめ与野党の国会議員が常に、“自立”した存在であることを願う。

自民党に派閥がいくつあるのか数える気にもならないが、岸田派を除くと今回の総裁選ではどこもかしこも自主投票になるようだ。総裁選といえばこれまえカネと締め付けが罷り通った不法地帯。自民党という私党のうちわによる選挙ということもあって、公職選挙法の適用も免れてきた。最近でこそカネの神通力は無くなったが、それでも派閥のボスが右と言えば構成員は例外なく従うというのがしきたり。そのしきたりに背けば、“村八分”という政治家にとっては致命傷ともいうべきお仕置きがまっていた。その派閥選挙が今回に限ってはまったく機能していない。すぐ後に総選挙を控えており、地盤が固まっていない若手にとってはボスの命令よりも、一般国民に対する人気度が優先する。かくして自主投票をもとめて若手が立ち上がった。二階幹事長も「まったくそれでいいんじゃないか。どんどんやれ」と励ます変質ぶり。派閥より選挙の“顔”、これが若手にとって最大の命題なのだ。

ここまではまあよくある話。問題はこの先だ。派閥が締め付けを回避した途端、大多数のメディアは立候補を表明した3氏のうち誰が優勢なのか、さっぱりわからなくなってしまった。そりゃそうだろう。これまで選挙の優劣判断は有力派閥のボスに頼ってきた。そのボスも自分の配下の議員が誰に投票するのか、派内の勢力図を把握していない。ボスがわからなければメディアは判断できない。平時の取材で追っているのは冠婚葬祭や経歴、家柄、話題性のある暇ネタなど、傍目から見てわかりやすい情報ばかり。推測するに政策や政策を同じくするグループ、政策の妥当性、あるいは政策に託した信念の濃淡など、政治家の深淵を覗くような取材はほとんどしていない。ボスが目を閉じればメディアは何も見えなくなる。だが、例外がある。決選投票になるとにわかにボスの目が輝きを取り戻す。多くのボスは決選投票に持ち込みたいのだ。かくして最近のメディアには決選投票に関連した記事が多くなる。