昨日、車を運転しながらひさしぶりにうんざり感を味わった。所用があって市内の狭い裏通りを運転中に対向車に遭遇。スピードを落として車を左に寄せながら対向車とすれ違う。この時、道路の左側にスマホを手にした学生風の男性が歩いていた。スマホに視線を落としたままで、近寄る車に気づかない。スマホに夢中で周囲の状況が目に入らないのだ。運転している筆者や車に視線を向ける素ぶりもない。普段滅多にクラクションを鳴らさないが、危険回避のため仕方なくプップと鳴らす。その音に驚いってスマホ男がようやく道路の左脇に身を寄せ、なんとか対向車とすれ違って事なきを得た。クラクションの音でこちらを振り向いた、近くにいた数人の視線がやけに尖っているような気がした。

筆者が住んでいる近くには教員養成の大学がある。大学の周辺を散歩したり車で通りかかる時に、スマホを片手に列をなして歩いている学生とすれ違うことがよくある。彼らは例外なく周囲の環境に無関心である。スマホを食い入るように覗き込んでいる。高齢者が自転車で通り過ぎようが車が速度を落として走ろうが、まったく関心を示さない。自転車や車は自分の安全を守って当然というような顔をしている。周囲の状況に気を配り、通り過ぎる人に迷惑をかけないようにしようといった配慮はまるでない。彼らが電車にのると、座るやいなやスマホに視線を落とす。立っていても座っていてもスマホ。その姿は俯き加減で自分の世界に一人閉じこもっている。同じ電車に乗り合わせた数人の中学生が、妙に甲高い声ではしゃぎまくっているのと対照的。うるさい中学生の方に好感を感じるから不思議だ。

個人的にもスマホは必需品になっている。だからスマホを見ながら歩く学生に大きな事を言える立場ではないことは承知している。それでもこうした状況に頻繁に巡り会うとうんざりしてくる。この風景を強引に近未来に引き延ばせば、そこには自分の世界に閉じこもる閉鎖性と、会話を通したコミュニケーションの喪失症候群のようなものが見えてくる。人類はそのうちスマホを介在しないと会話が成り立たないようになるかもしれない。隣にいる友達同士がLINEで会話する。無言の会話は1対1から多数同時双方向通話に広がり、人間は言葉を話さなくなる。脳科学が発達するとそのうち人間はテレパシーで会話するようになるかもしれない。人間はこのままいくとスマホに取り込まれる。事態は深刻なのかもしれない。うんざりなどしていられないかも・・・。