自民党は明日(4日)、裏金づくりに絡んだ党員の処分を決定する。離党勧告か党員資格停止か、伝えられる処分内容は毎日揺れ動いているようだ。ニュースを見ながらうんざりする毎日。この不快感をなんと表現すればいいのか、あまりの体たらくに呆れてものが言えない日々だ。そんな折に読んだ「石橋湛山に学ぶ『真正保守』の哲学」(文藝春秋4月号、保阪正康著、連載第41回)が私の怒りを代弁してくれた。己の拙い文書を綴るよりも、保阪の的を射た文書を紹介した方が個人的な怒りを率直に表現できる。今年は石橋湛山生誕140年だそうだ。保坂は湛山への関心が高まっていると指摘しながら次のように強調する。「湛山は私の見るところでは、近現代史にひときわ深く存在を刻んだ『真正保守』の政治家でありジャーナリストであるが、湛山がいま甦りつつある」と。

「ことの前提には、累代の自民党政治の歪みが一気に噴き出したかのような不祥事が続く岸田政権への失望があるだろう。ことに裏金問題によって、本来は政治倫理の真っ当さを体現しなければならない権力側の政治家が、政治資金の不透明極まりない環流と、議会制民主主義の長年にわたる腐敗構造の只中にいることが明らかになり、日々の生活に呻吟しながら納税の義務を真面目に果している国民からすると、強い不信の念を抱かざるを得ない政治の実態になっている」。その通りだ。岸田総理に象徴される“改革の意思”なき自民党は、何をやっても国民の信頼は得られないだろう。ましてや党員の処分においておやだ。岸田総理が自ら長年にわたる自民党の腐敗構造にメスを入れ、身を捨てて矢面にたたない限り自民党の復活はない。総理を辞め、政治家を引退し、世襲を行わないと宣言し、後事を次世代に託して初めて国民は納得するだろう。

さて、表題の桐生悠々だ。なぜこの一文の表題に彼の名前をとったのか。それは「日本の近現代史のなかに見出すことができる骨のある言論人では、桐生悠々と石橋湛山が双璧ではないだろうか」との一文によっている。石橋は誰でも知っている。だが桐生を知る人はほとんどいない。戦前、軍部が権勢を誇った時代、軍国主義に敢然と異を唱えた反骨のジャーナリスト、それが桐生悠々である。彼が筆をふるった信濃毎日新聞の論説は、かなりの部分が検閲の墨で黒々と塗り潰されていた。それでも彼および信濃毎日新聞はその記事を掲載し続けたという。前述の一文は反骨の小説家・井出孫六の思いを保阪が伝えたものである。井出もまた長野県の出身である。骨のある政治家もジャーナリストもいなくなって日本はいま、行くあてもなく漂流している。そんな中で昨年6月超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が発足したという。数は少ないが志のある議員は残っているようだ。

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