この週末、自裁して亡くなった西部邁の「知性の構造」(角川春樹事務所刊)を読んだ。著者が自らの思考のあり方を一般読者にもわかりやすく図解しながら解説したものだが、正直いってほとんど理解できなかった。とはいえ、西部の主張する「崩壊しゆく知性」については、なんとなくだが雰囲気ぐらいはつかめたような気がする。この本を理解するためには何回も読み込まないとダメだろう。知性に欠けた筆者にとっては、それがあるべき姿だ。そんな気がした。ただしこの本、著者の自裁死という衝撃的な出来事があったせいか、アマゾンで注文しようとしたら中古で8000円前後の値段が付いていた。とても買えない。私立図書館にあったので借り出した。本にはボールペンでいっぱい線が引いてある。公共物に勝手に線を引く、これも知性崩壊の証か。
わからないにしても読破することに意味がある、そう自分に言い聞かせながら読んだ。そして序章に戻って次のような書き出しに納得する。「知識人という類型に属する人間たちが急速にその存在感を失っていく」。言葉を使って職業とするような人たちはおしなべて知識人の部類に属するようだ。ジャーナリストを自称する筆者も、西部の分類によれば知識人の中に入るのだろう。本人には全くその自覚がない。西部によると知識人は「生きながらの腐敗という極度の苦痛を味わっている」、そして「その苦痛から逃れるべく、マスコミのジャーナリズムに飛び出してくる」と。この辺はよく分かる。しかし、飛び出した先のマスコミのジャーナリズムは「世論という代物であり、その世論に寄り添うという条件付きでなければ専門的知識も存在を許されないという仕来りになっている」
なるほどと思いつつ、この辺は半信半疑。だが、その先の結論に至ってはたと驚いて同意した。「世論なるものの正体は何かといえば、度し難いまでの『雰囲気の支配』であり、さらにその雰囲気の正体はとなると、それは、(中略)ありふれた美辞麗句の羅列なのである」。我々は常日頃テレビや新聞、ネットなどで世論調査というものを目にしている。まるで日本中が世論によって動いているかのようであり、世論が正しい答えを出しているかのような錯覚に陥る。しかし、その世論には調査票を作る立案者の秘められた意図があちらこちらに散りばめられている。ここをうまく使えば世論はある程度意図的に作り出せる。こうして作り出された世論に次なる世論調査の立案者が追随する。西部はこうした雰囲気に迎合しない限り知識人はその存在すら許されないのだと警鐘を鳴らす。考えてみれば恐ろしい社会ではないか。雰囲気の上に雰囲気が上塗りされる。こんなことを考えながこの週末、立案者の意図を探りながら某調査会社の世論調査に回答した。