トランプ米大統領は先月行われたハノイでの2度目の米朝首脳会談で、弾道ミサイルと生物化学兵器の全廃を北朝鮮に要求したという。
これを北朝鮮が受け入れられない理由については、すでに本欄で述べた。東アジア最弱とも言える北朝鮮軍が、核兵器に続いて弾道ミサイルや生物化学兵器まで全廃したら、それこそ「武装解除」と言うに等しいからだ。
だが、問題はこれだけではない。ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は3日、上述の生物化学兵器などの件について明かしたFOXニュースの報道番組で、次のようにも語った。
「大統領は弾道ミサイルと生物化学武器を含む完全な非核化と(その対価としての)経済開発の展望を含むビッグディールを逆に提案した」
この提案は、一見すると北朝鮮にも合理的な取引のようにも思える。だが、金正恩党委員長はこの提案に絶対に乗らないだろう。実は、北朝鮮は過去にも、米国からこれと似たような誘いを受けたことがある。2009年7月、オバマ前政権のクリントン国務長官(当時)が、次のように呼びかけたのだ。
「完全かつ後戻りできない非核化に同意すれば、米国と関係国は北朝鮮に対してインセンティブ・パッケージを与えるつもりだ。これには(米朝)国交正常化が含まれるだろう」
インセンティブ・パッケージとは、米国が国交正常化、体制保証、経済・エネルギー支援などを、北朝鮮は核開発プログラムや弾道ミサイルなどすべての交渉材料をテーブルに載せ、大規模な合意を目指すことを念頭に置いていたものとみられる。
北朝鮮は、なぜこれに乗らなかったのか。理由はおそらく、人権問題である。米国にはブッシュ政権時代に出来た、北朝鮮人権法という法律がある。日本人拉致問題も含め、北朝鮮の人権状況が改善されない限り、米国から北朝鮮への人道支援以外の援助を禁止すると定めた時限立法で、トランプ政権下でも延長されている。また、米国議会ではほかにも様々な角度から北朝鮮の人権問題が議論されている。
恐怖政治で国民を支配する北朝鮮の体制にとって、人権問題は体制の根幹に触れるものであり、交渉のテーブルに乗せることなどできるはずがない。
そのことをわかっているトランプ氏は(おそらく本人の人権に対する観点も手伝って)北朝鮮の人権問題への言及を避けている。しかし、現に効力を持っている北朝鮮人権法を葬れるかと言ったら、いくら大統領といえども簡単な話ではない。
それに、北朝鮮で凄惨な人権侵害を受け、命からがら逃げ伸びてきた生き証人はたくさんいる。たとえば、国際人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)が昨年10月31日に発表した報告書「理由もなく夜に涙が出る 北朝鮮での性暴力の実情」は、世界的に大きな反響を呼んだ。
そこには、被害女性らの血のにじむような証言が数多く収められており、読むほどに「そこまで酷いのか」と愕然とさせられる。
このような勇気ある告発が次から次へと出てくる状況の中で、米国と北朝鮮の「ビッグディール」などというものが成就し得ると、トランプ氏やボルトン氏は本気で考えているのか。
彼らが、それほど愚かとはとても思えない。ということはつまり、金正恩が「ビッグディール」の誘いを「ワナ」と考えていても、不思議ではないのではないか。