Kate Kelland and Stephanie Nebehay
[15日 ロイター] – 1月末、慌ただしい北京訪問からスイスのジュネーブに戻った世界保健機構(WHO)のテドロス事務局長は、中国指導部による新型コロナウイルスへの初期対応をはっきり称賛したいと考えていた。だが、当時の状況を知る関係者によると、テドロス氏は複数の側近からトーンを落とすべきだと進言された。
習近平国家主席らと会談したテドロス氏は、インフルエンザに似た感染症に関する彼らの知識や、封じ込めに向けた取り組みに感銘を受けた。だがこの時点で、すでに中国では新型コロナウイルスで多数の死者が発生し、国外へも拡散し始めていた。
関係者によると、側近らはテドロス事務局長に対し、対外的な印象を考慮して、あまり大仰でない文言を使うほうがいいとアドバイスしたという。しかし、事務局長は譲らなかった。1つには、感染拡大への対処において中国側の協力を確保したいとの思惑があった。
「メッセージがどのように受け取られるかは分かっていた。テドロス氏はそうした面でやや脇の甘いときがある」と、この関係者は語る。「その一方で、彼は頑固でもある」
結局、テドロス事務局長は中国指導部の対応を公の場で大げさに称賛した。その一方で、中国当局者が内部告発を握りつぶし、感染症発生の情報を隠蔽していたとする証拠が次々と出て、一部のWHO加盟国から、テドロス氏の中国寄りの姿勢は「過剰だ」との批判を招いた。その先頭に立ったのがトランプ米大統領だった。トランプ氏は米国からの資金拠出を一時停止した。
ロイターは複数のWHO当局者、外交関係者に取材した。そこから見えてきたのは、創立72年を迎えたこの国連機関とそのトップが直面する苦悩だった。WHOとテドロス氏は、殺人的な感染症の流行を抑えることと、最大の資金拠出国である米国からの批判への対処という、2つの難題に同時に取り組まなくてはならない事態に陥っていた。
<中国の対応を支持した理由>
WHO内部の議論に詳しい関係者はテドロス事務局長について、トランプ氏の動きに「明らかに苛立っている」と打ち明ける。テドロス氏は、WHOが「政治的なサッカーボール」として利用されていると感じているという。
テドロス事務局長はこれまで、中国政府を称賛したのは軽率だったとする批判に強く反論してきた。中国の思い切った措置がウイルスの拡散を減速させ、他国は検査キットや緊急医療体制の準備を進める余裕ができた、というのがその理由だ。また、トランプ政権が資金拠出凍結を考え直すことを望む一方、主要な関心はパンデミックから命を救うことだと表明してきた。
関係者によれば、テドロス氏は訪中して習指導部への支持を公然と表明すれば、中国をライバル視する国を怒らせるリスクがあることを承知していた。と同時に、新型コロナウイルスが世界に広がっていく中で、中国政府の協力を失うリスクの方が大きいと考えていたという。
北京に2日間滞在したテドロス氏は、感染源の調査、ウイルスとそれを原因とする感染症のさらなる解明に向け、WHOの専門家と各国の科学者から成るチームが訪中する合意を中国指導部から取り付けた。この調査団には2人の米国人も含まれていた。
アイルランド出身の疫学者で、WHOで緊急事態対応を統括するマイケル・ライアン氏は、テドロス事務局長の訪中に同行した。ライアン氏もテドロス氏も、中国の新型コロナ封じ込め計画を確認し、それがしっかりしたものであることが分かった以上、中国を支持することが重要であると考えたという。
WHOが目指していたのは、「できるだけ積極的かつ迅速な対応が行われ、成果を収める」ようにすることだったと、ライアン氏は言う。「そうした対応を行うというコミットメントを揺るぎないものにしておくこと、対応の実施に問題が生じた場合にコミュニケーション経路をオープンにしておくことを求めていた。
新型コロナウイスへの対応を巡る不手際を批判されているのは、トランプ政権も同じだ。そのトランプ大統領は、WHOと中国への攻撃を緩めようとしない。
米国政府のある高官はロイターに対し、WHOは「新型コロナウイルスの脅威を高め、ウイルス拡散につながった中国の責任を何度も見逃してきた」と説明する。この高官は、WHOへの拠出金は中国より米国のほうが多いと指摘、WHOの行動は「危険かつ無責任」であり、公衆衛生上の危機に「積極的に取り組むというよりも」むしろ深刻化させていると語った。
さらに「調整の拙劣さ、透明性の欠如、リーダーシップの機能不全」が新型コロナウイルスへの対応を損なっていると主張。「世界の公衆衛生を良くするのではなく、阻害するような機関に何百万ドルも供与するのは止めるべきときだ」と述べた。
ロイターはWHOに対する認識を中国外務省に問い合わせたところ、「新型コロナウイルスの感染拡大以来、WHOはテドロス事務局長のリーダーシップのもと、積極的にその責任を果たし、客観的・科学的で公正な立場を維持してきた」との回答を得た。「私たちはWHOのプロフェッショナリズムと精神に敬意を表し、パンデミックに対するグローバルな協力におけるWHOの中心的役割をしっかりと支持し続ける」とした。
<中国称賛への「歯ぎしり」>
大きな疾病が発生すると、テドロス事務局長はすぐその中心地に自ら足を運ぶことが多い。2018年8月に発生したエボラ出血熱。テドロス氏は2年間で少なくとも10回、コンゴ民主共和国を訪れた。ほぼ終息に近づいていたエボラの流行は、今年4月に再燃している。
2019年4月、コンゴのエボラ専門病院でWHOのために働いていたカメルーン人医師が銃撃で死亡したことがあった。ある西側外交官はこのとき、テドロス氏が声を出して泣いているのを目撃した。「それくらい、彼の仕事のスタイルは情熱的だ。我がこととして取り組んでいる」と、この外交官は話す。
中国は肺炎が集団発生したことを、2019年12月31日にWHOに報告している。WHOは年明け1月14日、中国当局による予備調査では「人から人に感染するという明白な証拠は見つかっていない」とツイッターに投稿した。後日、WHOが中国に対して十分に懐疑的でなかった事例としてトランプ大統領から指摘されることになる。
もっとも、WHOの専門家は同日、(人から人への)限定的な感染が起きている可能性があると述べている。1月22日、訪中したWHO調査団は、武漢において人から人に感染したという証拠はあるが、完全に解明するにはさらなる調査が必要との見解を示した。
1月末、テドロス事務局長と幹部3人が北京に飛んだ。ライアン氏によれば、「公式の招待を受けたのは午前7時半。その日の午後8時には飛行機に乗っていた」という。
テドロス氏は1月28日に習国家主席と会談。データと生物学的資料を共有することを特に協議したという。テドロス氏は習氏と握手する写真をツイッターに投稿し、「率直に協議した」、「(習氏は)歴史に残る国家的対応を担った」と書き込んだ。
翌日にジュネーブで行われた記者会見で、テドロス氏は習氏のリーダーシップを称賛し、「習主席が感染拡大を詳細に把握していることに非常に勇気づけられ、感銘を受けた」と述べた。さらに、中国は「国内的にも対外的にも、透明性の確保に完全にコミットしている」と語った。
感染症が発生した当事国の政府を公然と批判すると、情報共有をはじめ協力に消極的になる恐れがある、とベテランのWHO職員は言う。WHOでアフリカ地域の緊急事態対応を統括するマイケル・ヤオ氏は、プレッシャーを感じてWHOとの連絡を絶ってしまう国をいくつか見てきたと話す。アフリカでコレラが発生したことを公表した際、そうしたことが何度か起きたという。
「データにアクセスできなくなり、最低でも特定の疾病のリスクを評価するだけの能力さえ利用できなくなってしまう」と、ヤオ氏は言う。
一方で、テドロス氏が中国政府の対応を高く評価することを、快く思わない向きもある。テドロス氏は毎週、WHO加盟国の外交官向けにブリーフィングを行っている。欧州から参加している特使の1人は、「テドロス氏が中国を称賛すると、歯ぎしりして悔しがる者が必ずいる」とロイターに語った。
<殺害予告も>
加盟国に対するWHOの影響力は限られている。加盟国の許可なしに入国する法的な権限はないし、強制力もない。したがって、テドロス氏が行使できる主な手段は、2005年に合意した国際保健規則の枠組みを順守するよう、加盟194カ国を政治的に説得することとなる。
テドロス氏は、韓国、イタリア、イラン、日本など、新型コロナウイルスと闘う複数の国の政府を称賛。3月30日には、トランプ氏の娘で大統領補佐官のイバンカ氏が米国の緊急対策法案について書いた記事を評価し、「非常に良い記事だ」とツイートした。
トランプ氏は当初、中国と習国家主席の危機対応を繰り返し褒めたたえてきた。しかし、3月中旬ごろになると、北京のウイルス対応への批判を強めるようになり、中国政府は世界に警告するためにもっと早く行動すべきだったと指摘した。
当時、新型コロナウイルス検査の対象拡大の遅れを含め、トランプ政権のパンデミック対応は広く批判されていた。新型ウイルスが何万人ものアメリカ人の命を奪い、米国経済に打撃を与える中、今年の大統領選で再選を目指すトランプ氏は、自身の対応を断固として擁護している。
一方で、米国などは加盟各国が適切なタイミングで正確な情報共有するよう、強力な声明を出すべきだとWHO指導部に圧力をかけてきた。「WHOはそうした懸念に対応しなかった」と、西側外交筋は話す。
米国のジュネーブ国連大使で元ホワイトハウス高官でもあるアンドリュー・ブレンバーグ氏がテドロス氏と定期的に会談し、WHOの対応について議論し、懸念を伝えていたと、欧州の外交官2人は証言する。
WHOは声明の中で、テドロス氏は加盟国間の国際規則に基づき情報を共有するよう、すべての国に求めているとしている。
4月7日、トランプ大統領はWHOが中国寄りで、新型ウイルスに関する世界への注意喚起が遅すぎたとして、資金拠出を停止すると警告した。 1月に中国の習主席(右)らと会談したテドロス氏(左)は、インフルエンザに似た感染症に関する彼らの知識や、封じ込めに向けた取り組みに感銘を受けた。だがこの時点で、すでに中国では新型コロナウイルスで多数の死者が発生し、国外へも拡散し始めていた。写真は北京で代表撮影(2020年 ロイター)
米国はWHOの最大の資金拠出国であり、この脅しは「手痛い」ものだ。WHOによると、米国は2021年12月までの2年間で、義務的拠出金と任意拠出金を合わせて5億5300万ドル(約592億円)を拠出することになっている。すでに承認済みのWHOの予算58億ドルの9%に相当する。中国の拠出額1億8750万ドルの3倍近くに相当する。
テドロス氏は翌日の定例記者会見で動揺した様子を見せ、「人種差別的」な発言や殺害予告まで受けていたことを明かし、記者からの質問に長々と熱心に答えた。
1週間後、トランプ大統領は資金拠出の凍結を発表した。
加盟国は通常、義務的拠出金と任意の拠出金を通じてWHOに貢献している。別の米政府高官によると、米政府は20年の義務的拠出金1億2200万ドルのうち、すでに半分近くを支払い済みという。同高官によると、今回のトランプ氏の凍結措置により、米政府は残りの6500万ドルの義務的拠出金と3億ドル以上の任意拠出金を、他の国際機関に振り向ける可能性が高いという。
米国の資金拠出停止によってWHOが受ける打撃は、政治的なものの方が大きいと、2人の欧州外交官は指摘する。現行動いているプログラムは、資金の手当てが当面できているためだ。しかし、長期的にはポリオやエイズ対策、予防接種など、米政府の拠出金で支えられているプログラムに影響が及ぶ可能性があるという。
「WHOとテドロス氏にとっては大きなダメージだ」と、WHO関係者は語った。
<各国からの援護射撃>
これまでのところ、ほとんどの主要国がWHOを支持している。フランスとドイツ、イギリスはWHO支持を表明し、今は非難するよりも、感染拡大との戦いに集中するべきとしている。ドイツ政府関係者は、感染拡大の脅威に共に立ち向かうよりも、過去の出来事にこだわる米国の姿勢は「非合理的」だと話す。
中国外務省は、「パンデミックが終息した後の適切な時期」に、WHO事務局長が新型コロナウイルスに対する世界の対応を検証する委員会を設置することを支持するとの声明を出した。一部の国がWHOの検証やウイルスの起源追跡に力を入れようとしていることに反対すると表明し、こうした動きは「伝染病を政治化」し、WHOの仕事を妨害しようとする試みだと批判した。
WHOの関係者は、4月24日に行われたビデオ会議で、各国首脳がWHOとテドロス氏支持を公に表明したことを、ある種の「勝利」と受け止めている。
この会議では、新型コロナウイルスの検査や治療薬、ワクチンの開発を加速させる協力体制の構築が話し合われ、各国首脳がテドロス氏やWHOに謝意や賞賛を伝えた。
マクロン仏大統領は、テドロス氏を「私の友人」と呼び、米国と中国を含め、主要国が一丸となって支援するよう促した。「新型コロナウイルスとの闘いは人類共通の利益で、この戦いに勝利するためには分断があってはならない」と、マクロン大統領は訴えた。
「非常に心強く感じた」と、前出のWHO高官は打ち明ける。「一緒に戦ってくれる仲間がいるのだと感じた」
(翻訳:エァクレーレン、山口香子)