新型コロナウイルスのワクチンとして実用化されたm(メッセンジャー)RNAワクチン。不可欠とされる技術を開発した、独ビオンテック社のカタリン・カリコ氏らに9月、「科学界のアカデミー賞」ともよばれるブレークスルー賞が贈られた。成果の裏には、どんな発見があったのか。
これまでのワクチンは無害化したウイルスのたんぱく質などからつくっていた。これに対し、mRNAワクチンは、ウイルスのたんぱく質そのものではなく、それをつくるための「レシピ」を体内に届ける。それをもとに体内でたんぱく質をつくり、同じウイルスの次の襲来に備える。
「レシピ」書き換えスピード開発
大きな利点は、スピード開発が可能なことだ。新しいウイルス感染症が流行しても、そのウイルスの遺伝子配列さえ分かれば、短期間でつくることができる。レシピを柔軟に書き換えるイメージだ。
実際、新型コロナワクチンの開発スピードは驚異的だった。新型コロナの遺伝子配列の情報が公開されたのは昨年1月11日。米モデルナ社は数日でワクチンの試作品を作製。ビオンテック社の技術を使う米ファイザー社も昨年4月に臨床試験(治験)に入った。
11カ月後の昨年12月には英国で、世界で初めてワクチン接種が始まった。過去、実用化まで最速だったワクチンはおたふく風邪とされるが、それでも4年かかっている。これまでの常識を覆す異例のスピードに世界が驚いた。そしていま、世界中で接種が進んでいる。
実現を阻んだ「炎症」 しぼむ期待でも続けた研究
mRNAをワクチンや薬として使うという発想は、30年以上前からあった。
しかし、実験で動物にmRNAを注入すると、異物として認識され、「炎症」反応が強く起きた。目的とするたんぱく質も、思ったように効率的にはつくられなかった。
mRNAはとてもこわれやすく、扱いが難しいという難点もあった。ワクチンや薬に使うという期待はしぼみ、望みの薄い研究とみられ、研究資金を得るのも難しかった。
こうした状況で、ハンガリー出身のカリコ氏は、米ペンシルベニア大で研究を続けていた90年代末ごろ、同大のワクチン研究者ドリュー・ワイスマン氏と共同研究を始め、ある工夫をmRNAに加えることで、炎症を最小限に抑えることに成功。2005年に米国の免疫学専門誌イミュニティで発表した。
その工夫とは、mRNAに「飾り」をつけること。
センサーだます「飾り」がカギに
体の中には、感染に備え、侵入してきたウイルス由来のRNAを見つけ出す「RNAセンサー」がある。これが警報を出すと炎症などが起こる。初期の実験で導入したmRNAはこのセンサーにひっかかっていた。
一方、人間の遺伝情報を担うのはDNA。その一部分のコピーとして、RNAは私たちの体内でも、日々つくられている。mRNAもその一種だ。ウイルス由来と違い、「自分のRNA」で炎症は起きない。特有の「飾り」がつけられていて、センサーが反応しないからだ。
カリコ氏らは、「飾り」を接種するmRNAにつけて、あたかも「自分のRNA」であるかのようにセンサーをだまし、炎症を防いだ。05年の論文では、この研究が「治療用RNAを設計するうえでの将来の方向性を示した」と記した。
ファイザー製やモデルナ製ワクチンの日本での名称には「修飾ウリジン」とついている。「修飾」はまさに、カリコ氏らが着目したセンサー回避の「飾り」を意味している。
今月、カリコ氏とワイスマン氏に生命科学部門のブレークスルー賞が贈られた。2氏はノーベル賞有力との声も多い。
「大きく広がる」可能性 mRNA医薬の未来
「強い信念の人。情熱をもって研究を進めていた」。2005年以降、カリコ氏と共同で研究を続けた米ペンシルベニア大の村松浩美・主任研究員は、こう当時を振り返る。成果は当初、大きく注目されたわけではなかったが、試行錯誤を続け、論文発表を重ねた。
10年代からmRNAに目をつけ、医薬品として開発をめざす企業が現れた。ワクチンやがん治療薬など、さまざまな開発が進んだ。その実績が下支えとなって、新型コロナのmRNAワクチンは1年たらずで開発された。
05年の論文と同じ号で紹介記事を書いた、東大医科学研究所の石井健教授(ワクチン学)は「彼女らの研究は、私たちの体が『自分』と『自分以外』をどう見分けているのかを解き明かす基礎的なもの。でもこの研究がなければ、これほどよいmRNAワクチンは実現できなかった」と評価する。
mRNAワクチンの実用化にはほかにも、「キャップ」と呼ばれるmRNAの安定性を高める構造の研究や、体内に運ぶための「入れ物」となる脂質ナノ粒子の研究なども大きく貢献している。
mRNAの医薬品への応用を研究する東京医科歯科大の位高啓史教授は、「これまで採算が期待できずワクチンや薬が開発されないような風土病にも、『中身』を入れかえればよいmRNAワクチンなら応用できるかもしれない。ワクチンとしてだけでなく、さまざまな病気の治療薬としての応用もめざされていて、可能性は大きく広がっています」と期待する。(野口憲太、瀬川茂子)