1989年6月3日深夜から4日未明にかけ、中国・北京の天安門広場の周辺で人民解放軍による発砲が始まった際、日本大使館一等書記官だった佐藤重和(69)は流れ弾が飛ぶ中、学生らと広場にいた。若者たちが弾圧されると「対中ODA(政府開発援助)など僕たちがこれまでやってきたことは何だったのか」と涙ぐんだ。だが日本政府はその後、対中制裁を強化した欧米諸国とは一線を画し、「中国を孤立させない」と真っ先にODAを再開させ、関係改善を進めた。その外交は今も問われている。
◇学生にシンパシー
後に駐オーストラリア、タイ大使を務めた佐藤は、中国を専門とする「チャイナスクール外交官」。胡耀邦元総書記の急死に端を発した民主化要求運動では、学生にシンパシーを感じて若者の中に入り込んだ。「本当にドラマの中にいるような感じ。今回はどうも様子が違うな、どうなるか分からないなと感じた」と回想。当時中国の変化に期待した。
結局、共産党は学生・市民を武力で弾圧。当時の中島敏次郎駐中国大使(故人)の秘書を務めた井川原賢は「中島さんは中国との間で精魂込めて積み上げてきたものが崩れたと嘆き、中国への幻滅感を強めたが、中国を孤立させてはならないとも述べ、複雑な心境だった」と明かす。日本政府は欧米諸国と並び凍結した対中ODA再開を目指したが、佐藤は「日本は真っ先に中国と関係改善したわけだから、(現場を)体験した者として気持ちの上で割り切れないものがあった」と振り返る。
事件から1カ月後の7月、仏アルシュで先進7カ国(G7)首脳会議(サミット)が開かれた。焦点は中国問題。当時外務審議官(経済担当)だった故国広道彦の回顧録によると、国広は事前会合で対中制裁強化で足並みをそろえる他国に「われわれは歴史的に中国を孤立させたら排他的になることを知っている」と訴えた。スコウクロフト米大統領補佐官は国広に「日本は天安門事件の再発を憂慮していないのか」と批判したという。
ただ東京の外務省内部で幹部が対中方針を議論した際、駐中国大使の就任が内定していた橋本恕(故人)がこう発言したのを、外務審議官(政治担当)だった栗山尚一(故人)は覚えていた。
「後々中国の若い人があの時、日本がどうだったかと話すだろう。その時のことを考えて対応を考える必要がある」。栗山は「橋本氏はもう少し共産党の対応に批判的であってもいいと感じたのだろう」と認識した。
◇日本を「突破口」に
89年12月、日本の対中姿勢を非難したスコウクロフトが実は同年7月初めに極秘訪中し、トウ小平と会談していたことが判明した。外務省では、米の「二枚舌」外交に怒り心頭だったが、栗山は「日本は早く円借款の凍結解除をしたい思惑があったのである意味渡りに船で、今度は日本が米側を利用した」と実情を明かした。
92年には中国側の求めに応じて天皇訪中が実現した。慎重な対中外交を取るべきだと主張した橋本が、駐中国大使でありながら一時帰国を繰り返し、難色を示す自民党有力議員を説得し、実現の立役者になった。しかし当時の中国外交を統括した銭其シンが後に回顧録で、西側諸国による対中制裁を打破する上で天皇訪中を利用したことを認め、当時の外務省幹部は中国に裏切られた思いを強くした。
日本の柔軟な対応を「突破口」に国際社会に復帰した中国は急速な経済発展を続けたが、「経済成長すれば民主化に向かう」との世界の期待は外れ、既存の世界秩序に挑戦する「強国」となった。天安門事件後、中国を手助けした日本外交は評価の分かれる所だ。
今、あの時の日本の対応に対しては中国の民主派知識人から批判も聞かれる。ある日本の現役外交官は「中国の体制の閉鎖性や限界など本質的な姿を見抜くべきであったかもしれない」と漏らした。(肩書は当時、敬称略)。
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