昨年の12月中旬だったと思う。月刊文藝春秋の1月号を購入したのだが、年末年始特有の忙しさにかまけて積読していた。創刊100周年、新年大特大と銘打った分厚い一冊。正月気分が抜けはじまた少し前からボソボソと読み始めた。そんな中で次の一文が目に止まった。最近は読み終えてもすぐに忘れてしまうから、ちょっと長くなるがここに書き留めておく。タイトルは「『日本の自殺』を読み直す」。京大名誉教授の佐伯啓思氏の原稿だ。「このままでは『日本に将来はない』という悲観的気分がこの列島に広がっている。だが、どうしてそうなのか。何が問題なのかとなると答えは判然としない」。同感だ。原因が判然としないことが悲観論をさらに勢いづけている。個人的にはこの現状を「三不」と呼んでいる。不安が不満に格上げされ、不穏な空気が漂い始めている時代だ。以下佐伯氏の論考は続く。

「人口減少が原因なのか、グローバリズムと情報化に乗り遅れたからか、改革が進まないからなのか、イノベーションの出遅れと生産性の低下が問題なのか、政府の失政なのか、企業家の意識が低いからか、古い習慣と規制のせいなのか、はたまた中国が悪いのか。毎月の論壇誌や新聞・テレビ等のマスメディアを見れば、ありとあらゆる犯人捜しが掲載され、その候補は出尽くしている。だとすれば、それぞれの犯人候補を断罪すれば良いわけで、『こうすれば日本は復活する』式の勇ましい提言も次々と繰り出されている。こんな状態が、長く見れば、バブル崩壊の90年代以降30年以上続いているのである。そして、実際には、そのけたたましいほどの百家争鳴がかえって事態を混沌とさせているのではないだろうか」。お説ごもっとも、納得の分析だ。己も「けたたましいほどの百家争鳴」の隅っこのさらに小さな片隅を汚している。持って恥ずべきか。

論調は続く。「『専門家』と称するものの見解が対立し、誰も確かな見通しを持つことができない。(中略)専門家のアドヴァイスのもと、政府も何らかの対策を打ち出す。だがすべてが場当たり的で、そこに全体像が見えないために、結局、何をやってもうまくいかない。30年にわたって『改革』が連呼され続けてきたにもかかわらず、ほぼゼロ成長で、政治への信頼は失墜したままだ」。思わずその通りと頭の中で相槌を打つ。この後にもっとも重要な論点が続く。「おそらく、本当の課題は、特定の分野にあるのではなく、それを全体として見る見取り図の欠如にあるのだろう。歴史や世界を見渡し、その中で日本の図像を描き出す指針がなくなってしまったのである。見取り図の描きようがないのだ」と。それでもリーダーはその努力をするべきだろう。僭越ながら佐伯教授の論旨に追加すれば、「図像を描き出す」真のリーダーがいないのだ。異次元緩和も異次元の少子化対策も異次元の防衛力増強も、日本のあるべき全体像になっていない。問題はそこにある。