川崎殺傷事件の痛ましさを思うと、この件について何かを書くのは気が重い。事件そのものというより、いつも思うのだがこうした事件に対するメディアの対応が気になって仕方がない。メディアにはメディアとしての役割がある。犯罪を取材し記事にする。あるいはテレビで放送することはメディアの責務でもある。再発を防止するための原因究明、背後関係、容疑者の人となりや精神状態、悲しみに包まれた犠牲者の様子など、取材を通して真実に迫るしか方法はない。だが、犠牲になった栗林華子さん(11)の両親のコメントを読むと、大事な娘を失った遺族の悲痛な現状が脳裏を過る。真実に迫る大切さ。迫られる方の痛ましさ。メディアの後ろには多数の読者がいる。遺族の心境を思うと取材という行為の残酷さが浮かび上がってくる。

「報道関係者各位におかれましては、自宅及びその近隣、葬儀場における取材・撮影はご遠慮くださいますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。残された我々が、最愛の娘との最後の時間を大事に過ごし、大切な思い出を胸に、少しでも穏やかな気持ちで娘を見送ることができますよう、温かく見守っていただければと存じます」。昨日、弁護士を通して発表された華子さんの両親が発表したコメントの一部である。おそらく外務省職員・小山智史さんの遺族も同じ思いだろう。だが現実は新聞、テレビ、雑誌など様々なメディアによる取材がいたるところで繰り返されている。そして、取材を通して確認された事実が新聞やテレビ、雑誌など各種メディアに掲載されていく。

こうした事件が起こるたびにメディアは総力をあげて情報提供を競い合う。今回も例外ではない。SNSも加わって犯人の心理状態を根掘り葉掘り抉り出そうとしている。心理学に通じた専門家も登場。あることないこと、多角的に犯人像を作り上げようとする。そんな中で気になったのは「拡大自殺」という言葉だ。見ず知らずの他人を巻き込んで自殺する行為をさすらしい。世の中には岩崎容疑者と同じ症状で悩んでいる予備軍は一杯いる。スポーツ選手の活躍に少年少女が憧れるように、他人を巻き込んだ自殺という犯罪行為が予備軍を刺激する恐れはないのか、報道の副作用が気になる。昨今中高年齢層の引きこもりが増えている。引きこもりはれっきとした病気だ。にもかかわらず社会的には病気として認知されていない。そのうえ、診てくれる病院もない。メディアはこうした事実こそ抉り出すべきだ。