: 評論家・中野 剛志

世代交代が、MMTと経済学の「科学革命」を引き起こすかもしれません(写真:adam121/PIXTA)「財政は赤字が正常で黒字のほうが異常、むしろ、どんどん財政拡大すべき」という、これまでの常識を覆すようなMMT(現代貨幣理論)。関連報道も増え続け、国会でも議論され、同理論提唱者の1人、ステファニー・ケルトン氏(ニューヨーク州立大学教授)も来日し、各所での講演が話題になるなど、ますますホットなテーマとなっている。このたび邦訳された、同理論の第一人者L・ランダル・レイ氏(バード大学教授)による著書『MMT現代貨幣理論入門』に解説を寄せ、著書『富国と強兵 地政経済学序説』で日本にいち早く紹介した中野剛志氏が、MMTの歴史的背景と意義を解き明かす。

意外に長いMMTの歴史

「現代貨幣理論(Modern Monetary TheoryもしくはModern Money Theory)」。通称「MMT」。

200年に及ぶ経済学の歴史においても、これほどまでに革命的であり、そしてスキャンダラスな経済理論が脚光を浴びることは、そうめったにはない。

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もっとも、最近になって現れたかに見えるMMTであるが、実は、20世紀初頭のゲオルク・F・クナップ、ジョン・M・ケインズ、ヨーゼフ・A・シュンペーターらの理論を原型とし、アバ・ラーナー、ハイマン・ミンスキーなどの業績も取り込んで、1990年代に、本書の著者L・ランダル・レイ、ステファニー・ケルトン、ビル・ミッチェルといった経済学者、あるいは投資家のウォーレン・モズラーらによって成立したという系譜をもっている。

MMTの歴史は、その原型も含めて考えるならば、意外と長いのである。

それにもかかわらず、MMTの登場は、やはり、革命的で、スキャンダラスな事件だと言わざるをえない。

それは、世界中の経済学者や政策担当者が受け入れている主流派経済学が大きな間違いを犯していることを、MMTが暴いてしまったからである。

しかも、単なる間違いではない。貨幣の理解からして間違っているというのである。

経済学とは、貨幣を使った活動についての理論だと考えられている。しかし、その「貨幣」について、主流派経済学は正しく理解していなかったというのだ。もし、そうだとしたら、主流派経済学の理論はその基盤から崩れ去り、その権威は地に堕ちるだろう。これ以上スキャンダラスなこともないではないか。

さて、その貨幣についてであるが、主流派経済学は、次のように説明してきた。

原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な「商品」が貴金属、特に金である。これが、貨幣の起源である。

しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量を持った金貨を鋳造するようになる。次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。

最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす(『マンキューマクロ経済学Ⅰ入門編【第3版】』110─112ページ)。

これが、主流派経済学の貨幣論、いわゆる「商品貨幣論」である。しかし、商品貨幣論が間違いであることは、歴史学・人類学・あるいは社会学における貨幣研究によって、すでに明らかにされている。また、イングランド銀行国際決済銀行も、商品貨幣論を否定している。
  
「貨幣とは何か」については、依然としてさまざまな説があるが、少なくとも、商品貨幣論のような素朴な貨幣論を未いまだに信じている社会科学は、もはや主流派経済学のみなのではないか。

延命を図る主流派経済学

では、MMTの貨幣論は、どのようなものであるか。詳しくは、『MMT現代貨幣理論入門』に譲るとして、その概要だけ触れておくならば、こうである。

まず、政府は、債務などの計算尺度として通貨単位(円、ドル、ポンドなど)を法定する。

次に、国民に対して、その通貨単位で計算された納税義務を課す

そして、政府は、通貨単位で価値を表示した「通貨」を発行し、租税の支払い手段として定める。これにより、通貨には、納税義務の解消手段としての需要が生じる。

こうして人々は、通貨に額面通りの価値を認めるようになり、その通貨を、民間取引の支払いや貯蓄などの手段としても利用するようになる。こうして、通貨が流通するようになる。

要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるからだというのである。

MMTの理論は、この正しい貨幣論を「前提」として構築される。MMTは、貨幣論という理論の「前提」からして、主流派経済学とはまったく異なっている。それゆえ、MMTが導き出す政策的含意もまた、当然にして、主流派経済学とは大きく違ったものとなる。

その結論だけ言えば、主流派経済学は、マクロ経済運営の中心に、中央銀行による金融政策を位置づけている。他方、財政政策の評価については、消極的あるいは否定的である。金融政策が「主」であり、財政政策は「従」という扱いなのである。

これに対して、MMTは、この主従を逆転させる。マクロ経済運営で中心的な役割を果たすべきは、財政政策なのである。中央銀行による金融政策も重要ではあるが、その役割はあくまで「従」としての位置づけとなると言ってよい。

主要先進国における経済政策は、おおむね、主流派経済学の理論に従って運営されてきた。とりわけ1990年代後半以降は、日米欧いずれにおいても、金融政策中心の傾向が顕著に強まった。

しかし、この金融政策中心のマクロ経済運営は、金融市場の不安定化(資産バブルとその崩壊の繰り返し)や低成長、あるいは所得格差の拡大といった結果をもたらした。とりわけ、2008年の世界金融危機、その後のユーロ危機、あるいは日本の長期デフレによって、主流派経済学が処方する金融政策中心のマクロ経済運営は失敗に終わったということが、白日の下にさらされたのである。

このため、世界金融危機以降は、ポール・クルーグマンローレンス・サマーズ、あるいはオリヴィエ・ブランシャールなど、主流派に属する経済学者の中からでさえ、金融政策の限界を認め、財政政策を重視すべきだという声が上がってきている。

「科学革命」を恐れる経済学者たち

しかし、彼らは、財政政策の重要性を認めたとはいえ、主流派経済学が貨幣論という「前提」から間違っていたことまでは、いまだ認めていない。もし、それを認めてしまったら、主流派経済学の理論体系が根底から崩壊し、MMTに取って代わられてしまうだろう。トーマス・クーンの言った「科学革命」が経済学において勃発するのだ。

だから、クルーグマンもサマーズもブランシャールも、今のところ、MMTを批判的に評価し、受け入れようとはしていない。彼らは、主流派経済学の既存の枠組みを破壊することなく、その中で「財政政策が主、金融政策が従」という結論を導き出そうとしているように見える。要するに、主流派経済学の延命を図っているのだ。

日本の経済学者や評論家、あるいは政策担当者の大半も、海外の主流派経済学者の虎の威を借りつつ、MMTを「極論」「暴論」扱いしている。その中には、消費増税論者がMMTを批判するのに、消費増税に反対するクルーグマン、サマーズあるいはブランシャールの名を引いてくるなどという滑稽な例すら見られる。

だが、主流派経済学が間違った貨幣論のうえに成立している以上、その枠組みの中で、結論だけ変えるような論理操作を施したところで、何の意味があるというのだろうか。そのような姿勢は、研究者として不誠実であると言うべきではないのか。

なぜ、主流派の経済学者や政策担当者たちは、MMTに対して、このような不誠実な態度をとり続けるのであろうか。

意外なことに、その答えは、シュンペーターが教えてくれる。

ちなみに、シュンペーターは、MMTの形成に大きな貢献をしたミンスキーの指導教官である。ミンスキーは、本書の著者レイの師であるから、レイはシュンペーターの孫弟子ということになろう。

あまり知られてはいないが、シュンペーターは、知識人、とりわけ経済学者の在り方にも、非常に強い関心を抱いていた。

シュンペーターが指摘した「経済学者の不誠実さ」の理由

例えば、大著『経済分析の歴史』の未定稿の中で、シュンペーターは、科学について、次の3つの論点を挙げている。

第1の論点は、科学の進歩についてである。

どの科学者も、独自の視点から理論を構築していくのではなく、専門の科学者たちの間ですでに確立された学説や方法を引き継ぎ、それを基礎として研究を進めるものである。

しかし、それゆえに、科学が既存の理論の枠組みから逸脱することは、極めて難しくなる。既存の科学構造がもたらす抵抗のせいで、学説や方法における大きな変化は転換という形ではなく、最初は遅れ、そして後に革命という形で起きるのである。そして、その過程の中で、恒久的に価値があるかにみえた、あるいは未だすべての成果を収穫する時期に至っていない既存の科学構造の諸要素は失われることになる。(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

このようにシュンペーターは、クーンの「科学革命」説に先行する議論を展開するのである。

第2の論点は、「世代」の問題である。科学は継続性のある構造を有しており、学説や方法は容易には変更されない。この継続性は、同じ時代に属する科学者たちはその姿勢も類似したものになるという「世代」という現象によって理解し得る。(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

ということは、科学の転換は、環境の変化だけではなく、世代の交代によってももたらされるであろうということだ。

第3の点は、経済学者という社会集団の問題である。科学者たちは特殊な社会集団を形成するが、「経済学においては、この集団は成熟するまでに長くかかったが、成熟してみると、物理学におけるものよりもはるかに重要なものとなった」。(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

この経済学者という社会集団について、シュンペーターは、主著『資本主義・社会主義・民主主義』においても、「知識人の社会学(the sociology of the intellectual)」として考察している。そこで彼が「知識人」と言っているのは、端的に「経済学者」と読み換えてよい。

知識人(経済学者)には、次の3つの特徴があるとシュンペーターは言う。第1に、「実際の事件に対して直接の責任をもたない」第2に「実際の経験からのみ得られる生の知識をもたない」、そして第3に「批判的態度」を旨とする(『資本主義・社会主義・民主主義』)。

経済学者たちは、政党のパンフレットや演説の原稿を書いたり、政治家の秘書や顧問として働いたりするなどして、より直接的に政治に入り込む。また、経済学者と官僚の関係も密接なものとなる。

なぜなら官僚は、同じような教育をうけ多くの共通点をもっている現代の知識人に従って主義を改めることにはやぶさかではない(『経済分析の歴史[上・中・下]』)

からだ。

こうして、経済学者たちは、政策に深く関与し、社会に多大な影響を及ぼすようになる。しかし、経済学者たちは「実際の事件に対して直接の責任をもたない」し、「実際の経験からのみ得られる生の知識をもたない」のである。そんな彼らが構築した理論は、しょせんは机上の空論である。机上の空論なのだから、現実の社会で通用するはずもない。

だが、「批判的態度」を旨とする経済学者たちは、理論に合致しない現実の社会のほうを批判する。そして、現実の社会を破壊しようと企てるというのである。

MMTによる経済学の「科学革命」

このシュンペーターによる「経済学者の社会学」は、主流派経済学者たちがMMTに対して異様なほど抵抗した理由をよく説明しているであろう。

2018年にノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーですらも、主流派経済学者たちが画一的な学界の中に閉じこもり、極めて強い仲間意識を持ち、自分たちの仲間以外の専門家たちの見解や研究にはまるで興味がないことをひどく嘆いている。

また、主流派経済学者の理論の是非の判断基準は、事実ではなく、数学的理論の純粋さのみになっている、と強く批判している。

MMT批判の中には、「MMTには、数学的理論がない」などという低レベルのものが散見されたが、これなども、ローマーの批判を裏づけるものであろう。MMTが論じているのは、数学的な純粋さではなく、ビル・ミッチェルが強調するように、あくまでも「現実」なのだ。

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このように、近年、主流派経済学の在り方については、主流派の内部からも批判の声が上がっていた。そこへ来て、突然のMMTのブームである。

これは、経済学における「科学革命」が起きる予兆なのであろうか。もちろん、断言はできない。

しかし、シュンペーターによれば、科学の在り方は「世代」の問題と深く関係しているという。

1990年代に成立したMMTが、それから一世代後の今になって注目を浴びていること。

また、MMTが、日本の「就職氷河期世代」など、停滞や格差の時代を経験した比較的若い世代によって支持されていること。

こうした現象は、MMTによる経済学の「科学革命」が世代交代に伴って起き始めたことを示しているのかもしれない。

もし、そうだとしたら、われわれは、経済学の歴史的転換点に立ち会っているということになろう。

いずれにしても、筆者としては、主流派経済学ではなく、それに挑戦するMMTを支持する側にいることを幸福に思っている。

そして、できるだけ多くの方が『MMT現代貨幣理論入門』を読んで、経済学の科学革命に参画することを切に願っている。