これって、なんとなく姑息な感じがする。朝日新聞(Web版)によると岸田首相が13日に開かれた自民党の役員会で行った発言を昨日訂正した。正式な発表があったわけではない。関係者間でコソコソっと話し合って訂正したのだろう。何を訂正したのか。懸案となっている防衛費増額の財源について「責任ある財源を考えるべきであり、今を生きる国民が自らの責任としてしっかりその重みを背負って対応すべきものである」と強調した件だ。政府高官は14日、記者団に対し、「『国民が自らの責任として』ではなく『我々が自らの責任として』だった」と述べたというのだ。「国民の責任」がメディアで報道され、さまざまな批判を浴びた後の訂正だ。対応は素早い。閣僚の罷免ではもたついたが、学習効果が発揮されたのだろう。「責任ある国民」から見ると、気がついたら訂正されていたということになる。

読売新聞(Web版)は訂正の理由を次のように説明する。「首相周辺によると、事前に用意された発言案に13日朝、首相が20か所ほど修正を入れ、『国民が』と記されていた部分を『我々が』に言い換えたという。茂木氏には前日の修正前の発言案が渡されていた」。政治家といえば口八丁手八頭、筋の通った訂正・修正はお手のものだ。批判を浴びなければ決して訂正しない。そう考えるとこの説明もにわかには信じ難い。要するに岸田首相に対する信頼感は地に落ちているのだ。信頼できない人に「国民の責任」などと言われたら、誰だって反発する。首相の修正が仮に事実だとしても、その修正の意味を理解しない側近にも緊張感がない。この話を記者団に伝えた茂木幹事長は役員会に出席していた。「我々の責任」と首相が発言したのを聞いていなかったのか。政治家というのは言葉の上で成り立つ職業だ。幹事長たるものあまりにも鈍い。

岸田修正を認めるとしよう。でも「我々」って誰だ、次々に新しい疑問が湧いてくる。政権与党のことか、野党も含めた政治家のことか。「今を生きる政権与党や野党を含めた政治家が自らの責任としてしっかりその重みを背負って対応すべき」、これなら理解はしやすい。ミサイルから国民の命を守るために、政治家が責任を持って必要な財源を手当する。役人を減らし、行政改革に取り組み、税収が増えるような経済の構造改革に邁進する。その上で足らざる分は国民の皆様に負担をお願いする。こういえば誰だった増税に反対できなくなるのではないか。それがないのに「国民」を「我々」に変えてみても、首相の念頭にある「我々」とは国民であることが透けて見えてしまう。ある評論家は「なせこれほどの大問題を党内で事前に根回ししないのか」と嘆いていた。日銀の黒田総裁はかつて「国民はインフレを受け入れている」と嘯いた。国民の気持ちや生活を理解できない岸田首相の支持率は、当然のごとくまた下がる。