「さざ波」で物議を醸した内閣官房参与の高橋洋一氏が退任した。これによってコロナの感染状況や菅政権のコロナ対応、メディアの報道姿勢が変わるわけではない。高橋氏が退任しても何もなかったかのように、五輪を絡めてコロナをめぐる侃侃諤諤の論争が続くだけだ。そういう意味では高橋氏のツイートは、コロナに覆われた社会にさざ波の一つも起こすことができなかった、総括すればそのひと言だろう。同じ日に米国務省は米国人に日本への「渡航中止」を勧告した。日本の感染状況は警戒レベルが最も高い「レベル4」に相当するということのようだ。こちらはさざ波では済まないだろう。五輪中止論と菅首相の責任論が大波となって襲ってくる。メディアも言論界も誰一人異論を挟まないだろう。内圧は押し潰せても外圧には対抗できない。日本社会の非国際性はこんなところにも見え隠れしている。

東洋経済のWeb版に先ごろ大阪大学大学院国際公共政策研究科のヴァージル・ホーキンス教授(47)の原稿か掲載されていた。タイトルは「『メディアの偏った報道』解消に挑む阪大教授の志,データで浮かび上がる日本の国際報道の問題点」となっている。その中に教授が推進している「グローバル・ニュース・ビュー(GNV)」の紹介がある。簡単にいえばメディアが取り上げるニュースの国際比較である。アメリカのテレビ報道では国際ニュースが15~20%あるが、日本の新聞(朝日、読売、毎日)は、全体の10%前後に過ぎない。おそらくテレビはもっと低いだろう。アフリカのニュースが占める割合は欧米の6~9%に対し日本は2~3%。日本のメディアの流すニュースは圧倒的に国内に関係するものが多いというのである。日本人は元々国際的にものを見る習慣がない。メディアも読者も視聴者も、国際標準でものを考えないというのが実態だ。

そんな土壌だから高橋氏がデータに基づいて実態を抉り出しても、誰もまっとうに評価しない。「さざ波」とか「屁にもならない」など言葉尻だけが一人歩きする。医療逼迫もそんな言葉の一つだ。欧米はどうやって逼迫を回避してきたのか、突っ込んだ解説や解消に向けた提言はほとんどない。いまや政治も経済も、旅行、イベント、カルチャー、あらゆるものが国際社会と連動している。パンデミックはそれを象徴する現象だ。だから国内のコロナ対策は国際的に理解される必要がある。五輪開催の条件として菅首相は、「国民の命と健康とを守る」ことを条件としている。当たり前のことだ。問題は一般論ではない。「どうやって守るか」、国際社会が理解できる具体論が必要なのだ。五輪をやめるのは簡単だ。問われているのは「安全性」に関する説明責任ではないか。さざ波論もさざ波批判も国際標準からほど遠い、ガラパゴス論争という気がする。