[バスラ/ナジャフ(イラク) 5日 ロイター] – 日照りで枯れ果てたイラク南部にある湿地の岸で、漁師が家畜の飼料にしかならないような小魚の死骸をかき集めていた。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産にも認定されているイラクの湿原。地元住民はその広大な淡水域で網で魚を捕まえたり、水牛の大群を飼育しながら、自給自足の生活を送ってきた。

だが近年、湿地帯を潤していた河川が干上がり、海水が浸透して塩分が混ざった汽水域となったために、魚の姿は消え、数世紀にわたって維持されてきた生活様式が脅威にさらされている。

「淡水は失われてしまった」とハミース・アデルさんは言う。アデルさんはバスラ北西部アル・コーラ出身のマーシュアラブ人で、地元で漁師として長年働いてきた。

「以前はさまざまな魚が生息していたが、水不足や塩分の増加、ダム建設によって、いまや全ていなくなってしまった」

アデルさんは、乾ききって灰色っぽくなった茶色の大地を眺めた。ここは旧約聖書に登場する「エデンの園」のモデルとなった土地だと一部で信じられてきた場所だ。辺りには、打ち捨てられた木製の小型ボートや、脱水や飢えで死んだ水牛の白骨が点々としていた。

「どこへ行けばいいのか」とアデルさん。

かつて豊かな水路として古代メソポタミア文明を育んだイラクの湿地帯で暮らす多くの人々が、同様の疑問を抱えている。

<迫られる移住>

イラク全土で、漁師や農家、船大工などで生計を立ててきた人々が、水に頼る生活を諦め、都会に出て職探しを始めている。ただ、都市部の失業率は既に高く、不満を訴える抗議活動もしばしば発生している。

国際移住機関(IOM)によると、4年以上続く干ばつの影響を受け、昨年9月の時点で6万2000人以上がイラク国内で住処を追われており、事態の悪化とともにその人数は増加しているとみられる。

イラク当局や地方政府はこうした変化について、トルコやイランによる上流でのダム設置、水資源の不適切な運用、河川の深刻な汚染や、気候変動による降雨量の減少などといった複数の要因が重なり、最悪の事態になっているとしている。

河川や湿地帯が干上がると同時に、そうした環境の中で続いてきた経済も打撃を受けている。

経済活動のほとんどを国家が主導しているイラクでは、より多くの人々が政府関連の仕事を求めることになる。前財務大臣は労働者700万人分の給料を支払っていると述べており、同国の石油依存財政への負担は増すばかりだ。

モフセン・ムーサさん、ハサン・ムーサさん兄弟は、ユーフラテス川西岸のナジャフで、先祖代々引き継がれてきた漁業を行いながら生計を立てていた。

ハサンさんは数年前に漁師を諦め、代わりにタクシー運転手と、路上での食肉用ガチョウの処理・販売を始めた。だが、生活は苦しいままだ。

「干ばつが私たちの未来を奪った」とハサン氏は言う。

「(政府関連の)仕事があれば十分だ。それ以外には希望は何もない。他の仕事では私たちの生活に必要なだけ稼げない」

モフセンさんは浅く汚染された川で今も働き、生計を立てようと試みている。だが、以前は1日に50キロあった漁獲高も、現在は多くてもせいぜい5キロ。廃業の可能性が目前に迫っている。

じめじめした暑さの中、運河に沿ってボートを押しながらモフセンさんはこう話す。

「もはや漁師は何者でもない。物乞いも同然だ」

<「全て持っていた」>

船大工のナーメ・ハサン氏にとって、漁師の減少は仕事量の低下を意味していた。以前は最大10人ほどの従業員を抱え、1カ月に6隻以上の船を造っていた。だが今は、埃をかぶった工場で一人作業し、自身の生活費を賄うために働いている。

鉛筆を耳にかけ、刃が帯状ののこぎりを手に、ナーメさんは木の幹を伝統的な小舟のリブ(肋材)の形に切り出し、くぎで固定していく。

「水位が高かった時は、ボートの需要も多くあった。その頃は魚もたくさん生息していた」

ナーメさんは転職をしていない理由について、イラクの水辺で働く大勢の人と同様、他の仕事の仕方を知らないからだと答えた。

60代後半のアデル・アルバタットさんは、フセイン元大統領が反乱勢力の掃討作戦で湿原の大部分の水を抜いた際に同地域から避難してからというもの、仕事探しに苦労している。

2003年の米軍によるイラク侵攻以降、湿地帯の一部で洪水が起きたものの、水位が完全に戻ることはなかった。

「あそこには、都会の仕事に慣れている人は誰もいない」

アルバタットさんは、バスラ市街の外れにある簡素なコンクリートの家で取材に応じた。かつては湿地帯が自身や家族の必要なものをもたらしていたと振り返り、お金が必要だと嘆いた。

「以前は、全て持っていた」

(Ahmed Saeed記者、Issam Sudani記者、Timour Azhari記者)