16日付の産経新聞(Web版)に次の記事が掲載された。政治ジャーナリスト・安積明子氏の投稿記事だ。タイトルは「望月衣塑子記者と東京新聞に問いたい 民主主義とジャーナリズム」。東京新聞の望月記者と松野官房長官のやりとりをめぐる問題提起だ。安積氏は原稿の最後を「望月氏の言動は、望月氏や東京新聞の思い描く『民主主義』『ジャーナリズム』なのか。それぞれの見解を、ぜひ聞いてみたい」と。テーマは松野官房長官の時間配分という次元の低い問題だが、メディアをめぐる問題の一つがここにある。少し前にこの欄でジャニーズ問題をめぐるメディアの対応を取り上げた。週刊誌などでジャニー氏の性加害問題が取り上げられた際に、日本の主要メディアはこの問題をほとんど取り上げなかった。その理由は何か?ひとことで言ってしまえば、権力に対するメディア側の忖度だ。

話を簡単にする。売れっ子タレントを育成し、支配しているジャニー喜多川氏を権力者とみなす。エンタメ業界に多大な影響力を保持していたジャニー氏は、ある意味業界の権力者だったことは間違いない。視聴率を稼ぐためにメディア側は、所属するタレントを起用したいという強い意向を持っている。だから権力者であるジャニー氏と良好な関係を維持しようと努力する。「権力者の不都合な真実」には当然のごとく目をつぶる。これが忖度のはじまりだ。権力をチェックするというメディアの役割はいつの間にかどこかに投げ捨てられる。視聴率と性加害を天秤にかけ、悪びれることなく視聴率に軍配を上げてきた。忖度は日本社会のいたるところにいまも厳然と生き残っている。顧客より社長、国民より総理。政治家、官僚、企業、教育、医療、大学、学会、地域社会、すべからく行動原理は忖度だ。忖度しない個人や組織は異端児として葬り去られる。

官邸は忖度の象徴といっていいだろう。ここの住人である政治家や官僚、記者クラブ所属の記者たちも日常的に忖度しまくっている。官邸から記者クラブ側への忖度、記者クラブ側からと官邸側への忖度、ここでの忖度の流れは2つある。両方の忖度が折り合いをつけたところ、それが官邸記者クラブなのだ。ここは国民が知りたい事実よりも、都合の悪い事実には双方が触れない。忖度の上に成り立った異質な空間なのだ。安積氏の気持ちはわかるが、それを無視して民主主義やジャーナリズムを問うても意味がない。望月氏をジャーナリストとして評価するわけではないが、「木原問題」や「関東大震災直後の朝鮮人虐殺問題」を質問する望月氏の方が、忖度社会を打破しようとしているようにみえる。ジャニーズ事務所の謝罪会見で井ノ原快彦氏は次のような発言をした。「忖度をどうするか、みんなで考えてみませんか」。その通りだ。これは長いものに巻かれ、忖度しながら生きている日本人全員の問題なのだ。