三菱マテリアルは昨日、データ改ざん問題の最終報告書をまとめると同時に、竹内章社長ら6人の取締役が役員報酬を返上すると発表した。竹内社長は4月から3カ月間、役員報酬を全額返上する。きょう取り上げるのは報酬ゼロの是非論ではない。子会社のデータ不正改ざん問題の責任をとってトップが引責辞任しなかったことの是非である。同様の問題を起こした神戸製鋼所の川崎博也会長兼社長はすでに引責辞任の意向を表明している。これとの対比で竹内社長の対応はどうかということである。決算文書の書き換えをめぐって財界には、「民間企業は本人が関わっていなくてもトップは責任を取る」といった考え方が底流にある。暗に麻生財務大臣に引責辞任を求めたものだが、これとの対比で辞任論を考えことも重要だ。

個人的には竹内社長の判断は正しかったと考えている。むしろ、神戸製鋼所の川崎社長の方が責任の取り方としていかがかと思っている。神戸製鋼所も三菱マテリアルも、問題の所在は似ている。大量の受注を抱え、納期を厳密に守ることが企業間競争を勝ち抜く不可欠な要因となっており、企業ぐるみの不正行為が長期間にわたって行われてきた。問題が発覚してその責任を問われるのは当たり前として、トップがその時点で考えることは徹底的な原因の究明であり、再発防止策の策定である。日本企業の場合は原因究明と再発防止策を策定して、合わせてトップが引責辞任するケースが多い。問題はこうしたやり方の是非ということになる。引責辞任がほぼ確実な情勢(一般的な雰囲気)で、辞任が想定されるトップは本当に真剣に再発防止策の策定に力が入るのだろうか。個人的には疑問だと思っている。

責任を痛感しているとすれば、そのトップが原因を究明し、再発防止策を策定し、なおかつ、それらの施策をトップとして遂行する、これが本当の責任の取り方ではないか。日本企業のトップや政治家、マスコミはすぐトップの引責辞任を口にする。原因の究明や再発防止策よりも、引責辞任でカタをつけようとするケースが多いというのが実態だろう。その陰で原因の究明や防止策は形骸化し、不祥事は根絶するどころか水面下に潜在し、人が代わりトップが交代して同じ不祥事が二度三度と際限もなく表面化するのである。引責辞任でことを済まそうとする日本的風潮は、決して問題の根本的な解決策にならない。責任を果たすという日本語が「引責辞任」を意味しているとすれば、日本は国際的に激烈な競争社会で生き残れないだろう。