裁判長殿、本公判廷で発言をする機会を許していただき感謝しております。私が捜査機関から掛けられている容疑がいわれのないものであることを明らかにしたいと考えております。
最初にお話しておきたいのですが、私は日産に対し心からの親愛と感謝の気持ちを持っております。私は日産のために全力を尽くして、また、公明正大かつ合法的に、そして社内の所管部署から必要な承認を得た上で業務を進めてきました。私は日産を強化推進し続け、日本で最も優れており、最も尊敬される企業の地位を回復させることを、ひたすらに目指してきたものでした。
それでは、私に掛けられている容疑について説明させていただきます。
1.為替スワップ契約について
私は約20年前日産に入って日本に赴任した際、米ドルでの報酬の支払いを要望しましたが、それはできないと言われ、報酬は日本円で支払うという雇用契約を結ばされました。その時からずっと私は、米ドルに対する円の変動に懸念を抱いてきました。私自身は米ドル建ての生活を基本としております。私の子供たちは米国に住んでおりますし、私自身、米ドルとの固定為替レート制をとるレバノンと強い結び付きを持っています。そこで私は、自分の家族を養うために、ドル建てでの収入が変動しないようにしたいと考えていました。
そこで私は、日産に入ってしばらくした2002年以降、為替スワップ契約を締結していました。現在私に掛けられている容疑では、二つの為替スワップ契約が問題となっています。一つは06年に締結したもので、当時日産の株価は約1500円で、円・ドルの為替レートは約118円でした。もう一つは07年に締結したもので、当時日産の株価は約1400円で、円・ドルの為替レートは約114円でした。
ところが、08年から09年にかけての金融危機により、日産の株価は08年10月に400円、09年2月に250円にまで急落し(ピーク時に比べ80%超の下落)、円・ドルの為替レートは80円以下にまでドルが下がりました。これは誰も想像しなかった最悪の事態でした。銀行業界全体の仕組みが機能しなくなり、私が為替スワップ契約を締結していた銀行は、契約上必要となる金額の担保を直ちに差し入れるように要求してきましたが、私自身ではその銀行の要求に応えることができませんでした。
それで、私は二つの厳しい選択を迫られたのです。
(1)日産を退任して、退職慰労金を受領して、これを銀行に担保として差し入れるということです。しかし、私には日産への道義的な責任があり、この重大な局面で退任することはできませんでした。船長は、嵐の最中に船から逃げ出すようなことはできないのです。
(2)私が他の知人などから担保を用意するまでの間、日産に金銭的な損失を負わせない限りにおいて、一時的に担保を提供してもらうように要請することです。
結局、私は第2の選択肢を選びました。そしてしばらくして、上記の二つの為替スワップ契約の主体を再び私に戻しましたが、この間、日産に一切損害を与えておりません。
2.ハリド・ジュファリ氏(サウジアラビア人の知人実業家)について
ジュファリ氏は長年にわたって日産の支援者であり、パートナーでもあります。日産が大変困難な状況にあった時期に、ジュファリ氏の会社は日産の資金調達を支援してくれましたし、日産が地元の販売代理店との間で紛争になった時、この解決のために支援してくれました。
実際、ジュファリ氏は、湾岸地域全域で、業績不振に陥っていた販売代理店を日産が再編成することを支援してくれ、日産が販売力の勝るトヨタなどの競合他社に競り勝てるようにしてくれました。ジュファリ氏はまた、日産がサウジアラビアに自動車工場を建設できるように交渉を支援してくれ、サウジ当局とのハイレベルの面談等を設定してくれました。
ジュファリ氏の会社は、このように日産に対して極めて重要な業務を推進してくれましたので、日産は同氏の会社からの請求に基づき、関係部署の承認に基づいて、相応の金額の対価を支払いました。
3.金融商品取引法違反について
私は日産のCEOを務めている間、フォード、ゼネラルモーターズなど四つの大手自動車メーカーから招聘(しょうへい)の申し出を受けました。フォードはビル・フォードから、ゼネラルモーターズは、オバマ政権当時、自動車の帝王と呼ばれたスティーブ・ラトナーから申し出を受けました。彼らは極めて高待遇の条件を申し出てくれましたが、私たちの日産は会社再建の真っただ中であり、私は道義上、日産を見放すわけにいきませんでした。
日産は、私にとって非常に大事な日本の象徴的な会社だからです。このように私は他の自動車メーカーに移ることはしませんでしたが、これらの自動車メーカーが招聘の条件として提示してきた私の市場価値、すなわち報酬金額について記録をつけていくことにしました。
これは、将来の参考のために私が残していた個人的なベンチマークであり、法的な効力のあるものではありませんでした。他の取締役らに話したことも一切ありませんでしたし、法的な効力のあるものでも全くありませんでした。
実際、取締役らが作成していた私に関する退職後の競業避止や顧問業務についてのさまざまな提案がありますが、それは、私がつけていた上記の金額を反映していません。このことからも、私のつけていた金額が法的な効力のあるものではないことが分かると思います。
検察による訴追は全く誤っています。私は、開示されていない報酬を日産から受け取ったことはありませんし、日産との間で、開示されていない確定額の報酬の支払いを受けるという法的な効力のある契約を締結したことも一切ありません。また私は、退職後の報酬にかかる提案書のドラフト(草稿)については全て、社内外の弁護士により検討し承認されていると理解していました。
このことからも、私に金融商品取引法に違反する意図がなかったことを分かっていただけると思います。このことを理解していただくためのテストとして、「死亡テスト」と言われているものが良いと思います。つまり、私がきょう死んだとしたら、私の相続人が日産に対して、私の退職慰労金以外の金員の支払いを求めることができるかということです。答えは明白に「いいえ」であるからです。
4.日産への貢献
私は人生の20年間を日産の復活とアライアンスの構築にささげてきました。私はこの目標のために、日夜を問わず、地上でも機上でも、世界中で懸命に働く日産の従業員と肩を並べて、価値を創り出すことに取り組んできました。私たちの努力は目覚ましい成果を上げてきました。
私たちは日産を変革しました。1999年に2兆円の負債を抱えていたところから、06年末には1.8兆円の現預金を有するまでに至りました。99年に250万台の販売にとどまり多大な損失を計上していたところから、16年には580万台を販売して利益を上げるに至りました。
この間に、日産の資産規模は3倍になりました。日産の象徴であるフェアレディZやGT-Rを復活させました。中国の武漢、ロシアのサンクトペテルブルク、インドのチェンナイ、ブラジルのレゼンデにも進出しました。そしてLeafで電気自動車の市場を大きく開拓し、また自動運転車開発をスタートさせ、三菱自動車をアライアンスへ招き入れました。
このアライアンスは17年には世界第1位の自動車グループとなり、年間1千万台以上を生産しています。私たちは直接または間接に、日本で無数の雇用を創出し、日産を日本経済の主軸へと回復させたのです。
これらの成果は、世界に比類ない日産従業員のチームによって得られたものであり、私にとっては家族の次に、最も大きな人生の喜びです。
5.結び
裁判長殿、私に掛けられている容疑は無実です。私は常に誠実に行動してきており、数十年にわたるキャリアにおいて不正行為により追及されたことは一度もありません。
私は、確証も根拠もなく容疑を掛けられ、不当に勾留されています。
裁判長殿、ご傾聴いただき感謝いたします。(2019/01/08-20:57)