萩生田文部科学大臣が英語の民間試験導入の見送りに次いで、来年度に予定されていた国語と算数の記述式試験の導入も見送ると正式に発表した。見送りの方向性は以前から報道されており、見送りが正式に発表されたというのがニュースだろう。多くのメディアがこれに関連した記事を書いている。全部読んだわけではないうえ、教育問題に詳しいわけでもない。一読者として気になったことが一つある。教育現場の混乱についての責任は誰にあるのかということだ。入学試験の実施主体は大学である。将来を見据えた共通テスト改革の責任は文科省にあるとしても、一連の報道には実施主体である大学の責任という切り口がほとんどない。どうしてだろう?

毎日新聞の記事を参考に考えてみた。「これで英語民間試験とともに新テストの2本柱がなくなったことになる。多くの受験生を混乱させ、教育行政の歴史に汚点を残した大失態である。政府は経緯の検証を進め、責任の所在を明らかにすべきだ」と強い口調で批判する。特に異論はない。これまで多くの関係者を巻き込んで改革の議論をしてきたのだろう。記事の中には「問題を指摘する声は前にもあった」とある。それを汲み取れなかったのは文科省の責任である。「教育再生が安倍政権の重要政策であり、大学入試改革がその中核を担っていた」「改革を推進した政権の責任も問われる」。安倍一強政治で忖度が盛んに取り沙汰された。入試改革にも忖度があったのかもしれない。

だが、こうした指摘には死角があると思う。文科省や安倍首相に責任がないとも思わない。言いたいのは「選ぶ責任」は最終的には大学にあるということだ。英語のヒアリングを民間業者に委ねるのもよし、記述式の採点をアルバイトに託すのもよし、問われるのは受験生を評価する大学の能力である。評価能力の高いところに優秀な学生が集まる。単純な理屈だ。どうして評価基準を統一し、公平・公正に能力を評価する必要があるのだろう。前文科大臣の柴山氏によると「記述式・小論文などを課す大学は減り続けている」そうだ。面倒なことは手を抜き国に委ねているとすれば、責められるべきは大学の方だ。同質の平均主義では、「違い」を大切にする国際社会では生き残れない。日本が衰えていく要因がここにも隠されているような気がする。