From 浜崎洋介(文芸批評家)
こんにちは、浜崎洋介です。
これまで私は、ウィルスや感染症、あるいは経済の素人である自分が、一知半解の理解で、ただでさえ情報過多な現状において、軽々に言葉を発するべきではないと思ってきました……が、非常事態宣言の延長が決まった今、さすがに堪忍袋の緒が切れました。
結論から書いておきましょう。私は、どのような事情があろうと、この「接触8割削減」による「過剰自粛」という不条理は、一刻も早く解消すべきだと考えています。
まず、現状を「過剰自粛」だと感じる理由を率直に述べておくと、私自身が「コロナ感染者」を見たことがない一方で、日常を奪われ、失業の憂き目にあい、生活苦に喘ぎ、将来不安に慄き、その人生を狂わされた人々を、毎日のように見ているということがあります。つまり、「8割削減」などというたった一つの「計算式」、「抽象」のために、私と、私の目の前にいる人々との生活が、具体的に破壊され続けているという現実があるのです。
なるほど、とはいえ、国民国家を営むには、ある程度の「抽象」が必要であることは否定しません。以前のメルマガで紹介したカミュの『ペスト』においても、医師のリウーが、「〔感染症という〕抽象と戦うためには、多少抽象に似なければならない」と語っていましたが、まさに、目に見えないウィルスとの戦いにおいて、人間的感情(具体)がときに合理的計算(抽象)に席を譲らなければならない状況があることは私も理解しています。
が、それは飽くまで「具体」を守るための「抽象」であることを忘れてはならない。つまり、「抽象」にも、程度やリアリティの幅があるわけで、それを一律の「8割削減」に見定めるのか、「手洗い・うがい・高齢者の自粛」に見定めるのかは、まさしく、私たち自身が守る生活の具体的イメージによって異なってくるのだということです。その「具体」を忘れてしまえば、私たちは、いつでも「抽象」によって殺されてしまいかねません。
しかし、そう言うと、必ず「お前は命より経済を取るのか」と言う人間が出てきます。が、そう言う輩は、むしろ「経済」をこそ舐めていると言っていい。「経済」とは、すなわち、日々の生活であり、その生活を支える生業であり、私たち自身の暮らしの異名なのです。それは「おカネ」を媒介としますが、単なる「おカネ」の問題ではない。人と人との接触、ギブ・アンド・テイクの関わり合いの中から生まれてくる感情の総体、喜怒哀楽の流れそのものなのです。覆水盆に返らずとはよく言ったもので、生活を「一度止めてしまう」ことの取り返しのつかなさは、まさに東日本大震災で、私たちが経験したことではありませんか。
しかし、だからこそ、「おカネ」だけを渡しておいて(金銭補償)、経済は止めておいてもいいのだ(ロックダウンを目指すべきだ)などといった言説は、ニヒリズムの肯定以外の何ものでもないのです。「金をやるから大人しくしておけ」などという言葉は、家畜や奴隷には言えても、日々の仕事と、その生活の中に喜びを見出して生きる「人間」に向かって用いるべき言葉ではない。しかも、政府が「おカネ」をケチっている現状で、安易に「自粛延長」を唱えることは、それ自体が、ほとんど不条理な暴力と化していると言っていいでしょう。
しかし、だからこそ、自粛の大義名分である「医療崩壊阻止」の掛け声にしても、それが、私たちの「具体」を守る上での「抽象」であることが自覚されなくなってしまえば、いつでも「暴力」に反転してしまいかねないのだという事は忘れてはなりません。何も私たちは、「日本医師会」や「医療」のためだけに存在しているわけではない。むしろ「医療」という行為は、私たちの暮らしや、生活を豊かにしていくための一つの「手段」でしかないのです。しかし、それが「目的」とされてしまえば、「医療崩壊阻止」の美名の下に、「医療」以外の全ての暮らしと人々の生活が犠牲にされてしまいかねません。この「対米従属」ならぬ「医療従属」のニヒリズムを、抵抗すべき「不条理」と言わずして何というのか。
事実、「病からの自由」を担保する医療行為は、消極的価値(死からの自由)にはなり得ても、その自由(命)を使って成し遂げるべき積極的価値(命を賭しても成し遂げるべきこと)にはなり得ません。人が「命」を守るのは、その「命」を使って何かしらの生産をする限りであって、その逆ではない。つまり、医療崩壊を防ぐ努力は当然だとしても、それは、飽くまで、私たちの生活(生き甲斐・喜び)を守る範囲内においてのことであって、そのために生活を過剰に犠牲にすべきではないということです。さもなければ、私たちの社会は、「生き延びる」ことだけを自己目的化した、生きる屍たち(ゾンビ)の楽園となるでしょう。
ただし、誤解してほしくないのは、だからといって私は、即刻、普通の生活に戻るべきだなどとは言ってはいないことです。ただ、出来るだけの感染予防の努力をしながら――三密の回避・手洗い・うがい・手で顔を触らないこと・高齢者などのコロナ弱者の自粛などなど――なお、最低限の生活の営みを守っていくことはできるだろうと言っているだけです。果たして、それで人が死んでしまうのなら、それはそれで「仕方がないこと」ではありませんか。そう言うことは、冷酷でも何でもない。単に当然の事実を引き受けているだけのことです。むしろ、その当然の事実を避けて、人々の生活を破壊し続けることの方が何百倍も罪深いのではないでしょうか。繰り返しますが、私たちは、決して「医療」のために生きているのではない。たとえ死んでも、「生活の喜び」(生き甲斐)のためにこそ生きているのです。
この「仕方のなさ」から逃げようとするから、「仕方がない」などということはあり得ないと考えるから、つまり、「封じ込め」は可能だというゼロリスク神話に囚われるから、「8割削減」などという「抽象」を、バカの一つ覚えのように叫びはじめることになるのです(ちなみに、無症状患者が多い新型コロナでは、「8割削減」の前提となっている、クラスター潰しによる感染経路の特定と、それによる封じ込めは間違いなく破綻します)。
よくよく考えてももらいたい、これまでも私たちは、肺炎による死者を毎年12万人以上出し続け(一日300人以上の計算)、インフルエンザでさえ年平均1万人の犠牲者(一日30人)を出し続けきているのです(補足すると、アメリカの2017年~18年におけるインフルエンザによる死亡者数は6万人です)。それに比べて、今年の2月から5月にかけての「新型コロナ」による死亡者数は一体どれほどにものなのでしょうか(5月5日時点で521人)。もちろん、「数量」によって個人の悲劇を図ることはできません。が、それなら、単純に「命」と「経済」とを天秤にかけるべきでもない。「経済」とは「命」なのです。
カミュは、その小説『ペスト』のなかで、旅行者でありながら、保険隊を結成するタルーという人物に、〈抽象的に人々に死を強いるもの〉の比喩としてペストを語らせていました。しかし、だとすれば、タルーが語る――あるいはカミュが描く――「ペスト」の不条理(致死率7割)は、弱毒性の「コロナ」には全く対応していないと言うべきでしょう。むしろ、〈私たちのペスト〉は、「8割削減」と「過剰自粛」の不条理にこそ当て嵌まります。
そして、小説の後半、疲れ切った一日を過ごした後で、タルーは、医師のリウーを、市のロックダウンによって禁じられている海水浴に誘いながら、次のように語るのでした、「せんじつめてみれば、あんまり気のきかない話だからね、ペストのなかでばかり暮らしてるなんて。もちろん、人間は犠牲者たちのために戦わなきゃならんさ。しかし、それ以外の面でなんにも愛さなくなったら、戦っていることがいったい何の役にたつんだい?」と。
この度の「コロナ禍」においても、政策の判断基準(クライテリオン)は、このタルーの言葉と違うものではないはずです。すなわち、私たちのクライテリオンは、人々の「共感」であり、「愛情」であり、その「温かみ」の保守にほかなりません。その他細かい政策は、その時々の状況を見定めながら――コロナの毒性、経済状況、人々の心理状態などを鑑みながら――、その都度、適宜比較衡量して決めて行くしかないし、決めて行けばいい。その「愛情」の基準において、捨てるところは捨て、得るところを得ればいいだけなのです。
果たして、私たちは今、政府の「過剰自粛」によって殺されかけています。が、同時に、私たちの人生を最後に守るのは、やはり私たち自身であることも間違いありません。政府が「不条理」を強いるなら、それに「反抗」(カミュ)することは、決して不道徳なことではない。むしろ、それこそが、私たちの「エートス」(その住み慣れた場所)を守るための最後のエチカ(倫理)なのです。人が何と言おうと、私たちは私たちの「生き方」を守る必要がある。それ以外に、私たちの「生き甲斐」など、どこにもありはしないのですから。
<注記>この記事は藤井聡氏のFBより転載しました。同氏が主催しているメルマガ「表現者クライテリオン」に掲載されたものです。