伊藤純夫
- 1年かけ用意周到に準備、段階的な政策修正とハト派発信で市場抑制
- 目標実現へ総仕上げ、円安や国債・ETFの「遺産」など課題は山積
戦後初の学者出身である日本銀行の植田和男総裁が就任してから9日で丸1年となる。歴史的な大規模緩和の幕引きを混乱なく成功させた手腕への評価は高い。過去1年で勝負師の顔ものぞかせてきたが、物価目標の実現に向けた本当の勝負はこれからだ。
「非常に上手に混乱なしにやられた。そこはすごく大きな功績だと思う」。物価研究の第一人者で日銀出身の渡辺努東大大学院教授は、植田総裁が3月の金融政策決定会合でマイナス金利を解除して17年ぶりの利上げに踏み切り、イールドカーブコントロール(長短金利操作、YCC)の廃止と上場投資信託(ETF)などの新規購入の停止も同時に決めたことを高く評価する。
黒田東彦前総裁が推進した大規模緩和の限界が意識される中、就任当初から政策正常化が植田日銀の優先課題と目されていたが、長期化・複雑化した緩和策の手じまいは至難の業ともみられていた。利上げ決定の直後にブルームバーグが実施した調査では、79%のエコノミストが植田総裁のコミュニケーションを「良い」と回答。その円滑な移行によって市場の懸念は杞憂(きゆう)に終わった。
植田総裁は8日、 就任1年を迎えた所感を国会で問われ、昨年4月の就任時には日銀の政策がさまざまな理由で非常に技術的に難しい体系になっていると感じたとし、「もし経済状況が許せば、これをできる限り簡素化して分かりやすいものにしていきたいという心構えでいた」と説明。「幸い昨年度の経済状況はまあまあ良いものだったので、そうした希望をある程度かなえることができた」と振り返った。
大規模緩和からの転換は用意周到に進められたとみられている。昨年2月に総裁指名が報じられると、植田氏は自宅前で記者団に黒田路線の継承を宣言した。就任後の7月と10月には長期金利の上限を段階的に拡大してYCCの形骸化を進める一方、2%の物価安定目標の実現が見通せる状況には至っていないことも強調。ハト派的な発信を繰り返し、市場の思惑を抑制した。
植田総裁とは旧知の仲で日銀審議委員を務めた桜井真氏は、今回の政策変更について「1年かけて用意をしてきたということだと思う」と指摘。黒田前総裁が22年12月にYCC修正をサプライズ的に決めた時からプロセスが始まっていた可能性があるとし、「黒田前総裁のメッセージも踏まえ、我慢して実体経済を見極めながら、最後は植田総裁自身が決断したということだろう」との見方を示した。
この間、消費者物価は日銀の想定から上振れて推移し、最大のリスク要因とみられた米国経済も好調が持続。円安進行に伴うコスト高や物価上昇への懸念もあり、通常なら利上げに否定的な産業界や政治からも大規模緩和の修正への肯定的な見解が相次いだ。物価高も背景に最大のポイントだった今年の春闘が初回集計で33年ぶりの高水準を記録し、最後は日銀の想定を上回る強い賃上げが植田総裁の背中を押した。
弱まる追い風
追い風にも恵まれた植田総裁の1年目が終わり、任期の残り4年間で就任会見で表明した「物価の安定の達成というミッションの総仕上げ」に挑む。物価目標の実現が「見通せる状況に至った」ものの、達成には至っていない現状では、基調的な物価上昇率を2%へ押し上げるために緩和的な金融環境を続けることが基本となる。
他方、基調的な物価上昇率が上昇していけば、さらなる利上げに動く可能性を排除しておらず、市場の関心は既に追加利上げの時期とペースに移っている。ブルームバーグ調査では、エコノミストの約6割が10月までに次回の利上げが行われるとみており、タイミングは最多の10月が26%で、次いで7月が23%だった。
かく乱要因となり得るのが、日銀が金融政策の正常化にかじを切ったにもかかわらず、円安傾向が続く為替動向だ。調査では、エコノミストの54%が円安要因で日銀が利上げに動く可能性があると回答した。政府はけん制のトーンを一段と強めており、市場介入の有無を含めて為替動向に神経質な展開がしばらく続く公算が大きい。
より本質的には企業の賃上げとそれを価格に転嫁する動きや、個人消費、中長期のインフレ期待の動向の見極めがポイントとなる。3月日銀短観や支店長会議などで中小企業を含めて高水準の賃上げ実現に前向きな動きが見られ、企業のインフレ期待も堅調だ。賃金・物価面では3月利上げの妥当性を裏付けるデータが増えている。
一方、1-3月期の実質国内総生産(GDP)が再びマイナス成長に沈むと予想されるなど、足元の国内景気は一進一退で推移している。認証不正問題による一部自動車メーカーの生産停止という一時的要因があるものの、個人消費は力強さを欠いた状態が続き、減速が続く中国経済など世界経済の先行きも不透明感が強いままだ。
第一生命経済研究所の熊野英生首席エコノミストは、今回の0.1%程度の利上げによる経済への影響はほとんどなかったが、今後の0.25%などへの段階的な利上げ局面では「中小企業の破綻などの実体的悪影響が顕在化する可能性もあろう。そのときは、金利正常化に対する批判は断然強くなる」とみる。今後の利上げ局面では、一段と丁寧な説明が求められることになる。
植田総裁が3月会合後の会見で異次元緩和の「遺産」と称した、バランスシートに残る大量の国債やETFなどの取り扱いも焦点だ。このうち国債はYCC廃止前の買い入れ水準を当面は維持する方針を示している。目標実現が見通せているにもかかわらず、大規模な国債買い入れを続けることが、財政ファイナンスとの見方を強める可能性も否定できない。
渡辺教授は、財政規律は政府や国会がルールなどを作って維持するのが本筋だとしつつ、バランスシートの「遠景として目指す姿などについて、日銀は年内にも方針を示した方がいい」と提言した。
植田総裁は8日の国会答弁で、今後は金融政策の簡素化で残っているところを続けるとともに、「新しい枠組みの下で、経済状況の変化に適切に対応していきたい」と述べたが、総仕上げに向けた課題は山積している。
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