混迷が続く政局の中で、この原因はどこにあるのか考えてみた。毎度のことながら“妄想三昧”である。問題の本質は政党の政策や理念ではなく、国会議員個人の主張や考え方が首班指名選挙に反映されない現実にある。公明党の不透明な政権離脱によって明らかになったのは、議会政治の本質が政党の数合わせにあることだ。西側陣営はほとんどが主権在民を謳っている。本来なら有権者が主役なのだ。有権者によって支持された政党が有権者の声を代弁する。政党が合唱連合して政権ができる。これが議会制度だ。多数を握る政党が与党であり、これに届かない政党は野党。麻生副総裁はかつて「派閥の究極の目標は、首班指名選挙で統一行動を取ることにある」と豪語した。要するに派閥の代表が「◯◯に投票せよ」と指示すれば、全員がその人の名前を書く。ここでは議員個人の理念や政策は無視される。派閥の代表は当然の如く独裁権を行使する。

公明党は政権離脱の権限を斉藤代表に一任した。これも独裁権の行使に似ている。与野党問わずほぼすべての政党は大なり小なりそうしている。政党はある種の独裁権を党の代表に認めている。実務上そうした方が合理的だ。独裁権と言ってもこの場合は、党に所属している議員の意見をある程度集約した上での一任であり、北朝鮮やロシアのような独裁権者個人による占有とは根本的に違う。とはいえ、議員個人と党の見解が一致しないことも多々ある。少数意見は抹殺される。首班指名となれば党議拘束がかかる。これに違反すれば除籍など重い処分が課される。これって本当に民主主義なのか。多様化の時代である。個別の政策なり考え方は十人十色だ。それが許され逍遥される時代でもある。にもかかわらず一国の総理大臣を決める選挙では、議員個人よりも政党の方が重きをなしている。政党と言っても中身は千差万別だ。

自民党の総裁選挙。決選投票における高市氏と小泉氏の投票差は、議員票だけを見るとたった4票しかない。党内は二分している。自民党だけではない。各党とも意見は必ずしも一致していない。政党を廃止したら一体どうなるのだろう。仮に首班指名の決戦投票で勝利した議員が集まって与党を形成し、敗れた議員は野党になる。これは究極の二大政党制だ。直接民主主義で大統領制をとっているフランスもいま、多党化で首相を決めるのに苦労している。民主主義先進国の米国も共和党と民主党が対立、年度予算すら成立しない状況だ。両国とも議員個人の間では共通の認識を持つ人がたくさんいる。にもかかわらず政党同士が話し合うと党と党の溝は広がるばかりだ。日本には政党法もなければ、総理大臣の任期すらない。拉致被害者を見よ。国家主権が侵されても手も足も出ないのだ。そもそも国家統治の能力が政党にはない。この際、政党を禁止して首班に投票した議員を与党、それ以外を野党にする二大政党制を敷いたらどうだろう。