▽玉木雄一郎さんに贈る言葉 内に眠る血気を揺り起こし、「見るまえに跳べ」の精神で活動を<産経ニュース>2025/10/25 11:00
モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(214)

エラン・ヴィタールとアニマル・スピリット
21日14時前、衆院で高市早苗さんが第104代内閣総理大臣に選出されたのを見届け、このコラムを書き始めた。わが国はやっと再興のスタートラインに立った、と胸をなでおろしているところだ。
それにしてもここに至るまでの政局にはイライラさせられ通しだった。公明党からの離縁申し出は、今後の選挙はもちろん厳しいものになるだろうが、真の保守政党として自民党が再生するうえで素晴らしい贈り物であると受け止めていた。イライラの原因は、政局のキーマンとなり、自民党と立憲民主党の間で、よく言えば熟慮していた国民民主党の玉木雄一郎代表の言動だった。
玉木さんの筋を通しているかのようなもっともらしい言葉を耳にしながら想起したのが、「エラン・ヴィタール」と「アニマル・スピリット」という言葉だった。そしてこう思った。この人は確かに頭はいいし、女性スキャンダルはあったものの、誠実な人物であるように見受けられる。ただいまのままなら宰相になる器とは思えない-。その存在から「エラン・ヴィタール」と「アニマル・スピリット」が感じられないからだ。「趣味は玉木雄一郎」と常々公言している国民民主党幹事長の榛葉賀津也さんはきっと怒るだろうな。かまうものか。
「エラン・ヴィタール」とは20世紀初頭のフランスを代表する哲学者、ベルクソンの有名な概念のひとつだ。1907年に出版された『創造的進化』に登場したもので、日本語では「生命の跳躍」などと訳される。
科学技術が日進月歩で進歩し、かつダーウィン進化論の影響が強かった時代にベルクソンは生命を知性中心の科学的手法ではなく、直観を通じて捉えるべきだと主張し、生命の進化をダーウィン進化論のような環境への合理的な適応ではなく、生命に内在する創造的で予測不能な衝動によるものとして捉えた。
もうひとつの「アニマル・スピリット」は、言うまでもなく20世紀前半に活躍した英国の経済学者、ケインズが1936年に刊行した『雇用・利子および貨幣の一般理論』で使用して有名になった概念だ。
直訳すると「動物的精神」だが、ケインズが意味したのは、企業家を突き動かす合理的には説明のできない本能的・心理的なエネルギーのことだ。経済の先行きなど誰にも予測できるはずもない。そんな状況下で企業家に自社の盛衰に関わる重大な決断をさせるのが「アニマル・スピリット」、言い換えるなら「血気」である。
理性的・合理的に考えて「ああでもない、こうでもない」と逡巡(しゅんじゅん)していると時機を失ってしまう。自民党と立憲民主党の間で熟慮するあまり「メトロノーム」のような動きをした玉木さんのように。
玉木さんと対照的 吉村洋文さんの決断
「エラン・ヴィタール」と「アニマル・スピリット」は、ともに近代の合理主義へのいわば「反乱」であり、生命に内在する「衝動」に着目する点で共通する。この資質は国を牽引(けんいん)する政治家にこそ必要であると私は考えている。
というのも政治決断は多くの場合、確実な答えのない領域にある。「戦争か外交か」「増税か減税か」「環境か経済成長か」-などなど、いくらデータや情報を搔(か)き集めても正解の出せない問題に直面することがほとんどだ。そんななかで政治家に求められるのは、これまでの延長線上にない斬新な解決策や、国民を鼓舞するような未来への明確なビジョンを示す創造的跳躍ではないか。この意味においてエラン・ヴィタール的要素は欠かせないはずだ。
同時にリスクを恐れずに「この政策は必ず国民のためになる」と信じ、大胆に改革を推し進めようとする強い意志、すなわちアニマル・スピリットは必須だといえよう。政治家自身が熱意と「必ずよくなる」という楽観的ビジョンを持って行動するなら、それは生きたエネルギーとなって国民や企業にも伝播(でんぱ)し、それぞれのアニマル・スピリットを喚起して社会全体の活力を引き出すことになる。
玉木さんと対照的だったのが、自民党との連立を決断した日本維新の会の吉村洋文代表だった。NHKのキャスターに「自民と連立した党は公明党以外、消滅しているが、その心配はないのか?」と問われた吉村さんは「リスクはあると思います。でも、そのリスクにおびえて何もしなかったら、まったく道は開けないと思います」と答え、こう続けた。「我々が日本を良くしたい。後ろの方で構えて『誰かがやってくれ』ではなく『俺たちがやらなきゃいけないよな』という思いです」。この言葉には拍手しかない。
ただこれが弁護士でもある吉村さんの合理的な計算から出たものか、本当にアニマル・スピリットから発せられたものか、いまの段階では私にはよくわからない。というのも「この人についていけば未来は開けるかもしれない」と信じ込ませる、ある種の非合理的で強烈なエネルギーをこれまで吉村さんに私は感じることがなかったからだ(関西の人々はきっと違った受け止めをしているのだろう)。期待をこめて今後の言動をしっかりと観察させていただきたい。
人生に訪れる決断の必然性
前回のコラムでは、不遜を承知で高市さんに贈る言葉を書いた。今回は玉木さんだ。20歳のころ英国出身の詩人、W・H・オーデンの「見るまえに跳べ」という作品を知った。きっかけはオーデンにインスパイアーされた大江健三郎さんの小説『見るまえに跳べ』だ。
オーデンはこの詩において、どれだけ時間をかけて眺めていても、跳ばなくてはならない時が来ると、人生に訪れる決断の必然性を強調する。核になるのは次のフレーズだ。
《Look if you like,but you will have to leap》
「見たいのなら見ていろ。でもお前は跳ばなくてはならないのだ」
後半にはこんなフレーズが現れる。
《Our dream of safety has to disappear》
「われわれの安全安心の夢は消え去るべきだ」
国内外とも厳しい状況を前に自ら覚悟を決めて懸命に働き、国民にも同様の覚悟を求める。いま国を率いるリーダーに求められるのはそういうことだろう。
玉木さんにはぜひとも内側に眠る「エラン・ヴィタール」と「アニマル・スピリット」を揺り起こし、「見るまえに跳べ」の精神を持って活動してほしい。知的で合理的思考にすぐれた玉木さんなら、小泉純一郎元首相のような「アニマル・スピリット」の囚(とら)われ人となることなく、暴走しないバランスのとれた政治ができるように思うのだ。期待しています。(桑原聡)
▽高市早苗さんに贈る言葉 権力の頂点に上り詰めたときに失われてゆくものは何か<産経ニュース>2025/10/11 11:00
モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(213)

さっそく始まったリベラル系の攻撃
自民党総裁選決選投票で高市早苗さんの当選が決まった瞬間、テレビの前で思わず拍手をしてしまった。自民党もわが国もぎりぎりのところで踏みとどまったというのが正直な感想だ。殊勲賞は自民党の党員・党友たちだ。この人たちのおかげで、47ある自民党都道府県連のうち36が高市さんを支持する結果となった。国会議員票のキーマンとなっていた麻生太郎さんを動かしたのは、間違いなくこの事実だったはずだ。
だが喜ぶのはここまで。リベラル系メディアは高市潰しを最大の使命として、鵜(う)の目鷹(たか)の目で粗探しをする取材を開始し、財務省は財政規律を重んじようとする政治家を取り込んで、高市懐柔策を検討し始めたはずだ。
現実に左派メディアは、高市さんが総裁選当選直後に発した「私自身もワークライフバランスという言葉を捨てます」「働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります」という言葉にさっそくかみついた。過労死で家族を亡くした人々や自分たちの思想に近い識者の発言を援用し「時代に逆行している」と批判するのだ。
《「全国過労死を考える家族の会」代表世話人の寺西笑子さん(76)は「国のトップに立とうとする人の発言とは思えない」と驚く》
《労働法に詳しい脇田滋・龍谷大名誉教授は「古い日本の価値観を引きずったような発言で、非常に残念だ」と話す》
ともに朝日新聞の報道である。寺西さんと脇田さんを批判するつもりは毛頭ない。ただこうしたやり口で高市さんを攻撃する朝日新聞の報道は、私にはとてつもなく薄汚く感じられる。すずめ百まで踊り忘れず。リベラル系メディアの保守派高市攻撃はこれからどんどんエスカレートしていくことだろう。ため息しか出ない。
大切な理性だが限界を知る必要
ここで少し脇道にそれたい。今回のような政治がらみの文章を書くとき、私は「保守」と「リベラル」の明確な定義をしないまま、安易に「保守派高市さん」とか「リベラル系メディア」と書いてしまうことが多い。大いなる反省点である。ここで自分がどのような意味合いで使っているか確認しておきたい。
保守の核となる価値は「伝統」「秩序」「安定」であり、リベラルの核になるのは「個人の自由」と「平等」である。別の角度から定義するなら、保守は人間の理性の限界を常に意識し、リベラルは可能な限り人間の理性に信頼をおこうとする。社会を混乱に陥れることなく改良していくうえでは、どちらの態度も必要であり、要はバランスの問題なのだ。
私がモンテーニュをこよなく愛するのは、保守とリベラルの「幸福な結婚」を体現した稀有(けう)な存在であるからだ。キリスト教の価値観が支配する世界で、彼は理性こそが人間にとってもっとも大切なものであると気づきながら、賢明にも理性の限界を認識して「Que sais-je?」(ク・セ・ジュ?=私は何を知る?)という言葉を書いた。
《人間の病は、「おれは知っているぞ」という思いあがりである》(第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」関根秀雄訳)
そんな病を持つ人間が作った制度について、第2巻第17章「自惚(うぬぼ)れについて」にこう記している。
《どんな制度でも、これを不完全だととがめることは、はなはだやさしい。まったくこの世のものはすべて不完全にみちみちている。一国民にその古来の習慣を軽蔑させることも、またはなはだやさしい》
私が現代日本のリベラル派に警戒感、いや嫌悪感を持っているのは、「個人の自由」と「平等」を求めるあまり、己の理性を過信して「伝統」「秩序」「安定」をないがしろにする傾向が顕著に感じられるからだ。モンテーニュが指摘するように、それは保守することよりも「はなはだやさしい」のである。
自分の信念を疑う勇気と知性
永田町の力学に疎く、国際関係や経済・金融についても無知といってよい私ごときにできるのは、「これから首相になる高市さんに、モンテーニュならどんなアドバイスをするか」という設問を立てて軽量級の脳みそを絞ることぐらいだ。ちょっとやってみようか-。
モンテーニュがもっとも重んじたのは自己省察である。彼ならこんな言葉を発すると想像する。
「自分の信念を疑い、絶えず問い直しなさい」
人間という存在は、自分の信念に酔うとき周囲が見えなくなるものだ。国を率いる者の最大の敵とは、敵国ではなく、自分の堅固な信念であることが多い。ヒトラーを例に挙げるまでもなく。モンテーニュは「堅固な信念」よりも、「疑いながら考え続ける知性」を高く評価した。高市さんのように強い信念を掲げる政治家にとって、絶対に必要なのが自分の信念を疑う勇気と知性ではないか。
次に出てきそうな言葉は「高い理想を語る前に、日常をよく見よ」だ。
モンテーニュは自分自身と日常のささいな出来事から、人間と人間が織りなす社会の本質を洞察した。理想を現実のものとするには、足元を観察してできる限り正確に現実を把握する必要があるはずだ。基礎に1ミリの誤差があっても高層ビルは建設不能になる。政治家は往々にして、国家という壮大な物語に自己を埋没させがちだが、日常のささやかな生活こそが政治の出発点のはずだ。
3つ目は「敵を排除するより、敵を理解せよ」だ。モンテーニュは宗教戦争のただなかで、カトリックでありながらもプロテスタントに深い理解を示した。さまざまな価値観を持つ人間が共存するためにもっとも必要なものは、相手の真摯(しんし)な言葉を聞く耳だと考えた。そんな彼なら、国会の場では討論に勝つことより、相手を理解することに心を砕け、と助言するだろう。
昨今「論破」という何も生み出さない下品な行為が面白がられ評価されているが、国会はエンタメの劇場ではない。真摯な対話の場であることを認識すべきだろう。釈迦(しゃか)に説法かもしれないが。もちろん相手が不勉強で真摯さがなければ、徹底的に反撃して恥をかかせてやればいい。
最後は「謙虚さを忘れるな」だ。モンテーニュに言わせれば、首相の座に就いたって、所詮は自分の尻の上に座っているに過ぎないのだ。権力の頂点に上り詰めれば、どんな人間であろうと謙虚さが失われてゆくものだ。たまにはこのモンテーニュの言葉を思い起こしてほしい。高市さんは英国のサッチャーさんを尊敬しているというが、曲がらない「鉄の女」を目指すのは少々危険かもしれないよ、柔軟さも大切だよ、と言っておきたい。
最高権力者になろうという人に向かい、無礼を承知でしたためました。どうかご容赦を。(桑原聡)
